恭介に……抱きしめられてる。
瞬間、頭の中が真っ白になって……それからゆっくりと、その事実があたしの中に浸透してきた。
とても暖かくて。
とても優しくて。
とても、嬉しくて。
そして、とても怖くなった。
恭介は……この馬鹿は、どうしてあんな無茶をしたのか?
何故、今さっきも一階まで歩いてくるなんていう無謀な行動を起こしたのか?
その答えに気が付いたあたしは、この温もりでさえ怖く感じてしまう。
恭介の在り方が、怖い。
昨日までの無茶は鈴の為……なんだと思った。
大切な妹、家族の為。
なら、今は?
あたしだ。
恭介はきっと、あたしの事を聞いて自分の事も省みずにやってきたんだ。
家族でも特別な関係でもない、あたしのために。
結局はそういうこと。
この馬鹿は、『他の誰かのために、自分を蔑ろにしてしまう』 そんな行動原理を抱えてるんだ。
そんなの……駄目。
だって、そんな事を続けていたら……いつか必ず崩れてしまう。
あたしの、大切な人が。
嫌。
絶対に、駄目。
……このまま甘えてたら、そのことを伝えられない。
こいつを、叱りつけてあげられない。
大好きな人に抱きしめられている幸せ。 簡単に手放す事なんて出来やしない。
あたしも、ずっと望んでいた事だから。
でも……だからこそ。
あたしの両手が、ゆっくりと。
彼の身体を、押し戻していった。
「……馬鹿」
杏が俺の身体から離れていく。
泣きそうに呟いて。
とても愛しそうに……いつもの単語を呟いて。
それが寂しくて、それでも少しだけ嬉しくて。 俺は、素直に言葉を紡ぐ事が出来た。
「心配かけたみたいだな。 悪い」
「……っ!」
謝罪。
それは昨日までの事。
自分に向けられていた感情に、気が付くことが出来たから。
「……ようやく、気が付いたんだ?」
「ああ。 昨日まで、ホント悪かった」
「……」
杏は俺の謝罪に驚きつつも、すぐにとても安心した表情を見せてくれた。
……そっか。
その顔を見て、本当によく分った。
いままでどれだけ、俺はこいつに心配をかけていたのか、と。
「この際だから、はっきり言っとく」
そう前置きをして、杏が俺の顔を覗きこんだ。
まるで、出来の悪い子供を叱りつけるように。
「その事に気が付いたのなら、今日みたいな事もしないで。 お願いだから」
「……」
「自惚れっぽく聞こえたらごめん。 ……あたしに会いに来てくれたのはとても嬉しいわよ? ホントならあたしから行くべきだったのに」
少しの、躊躇。
「自分勝手な思い込みで怖がってたの。 あんたに呆れられたんじゃないかって」
「そんなこと、」
「でも」
言葉を切る。
「それでも敢えて自分の事は棚に上げさせてもらうわね。 ……恭介、もう、人の為に自分を省みないような無茶はしないで」
きっとそれは、本心からの願いなんだろう。
だから俺はこれっぽっちも躊躇わずに答えた。
「嫌だ」
「っ!? 恭介っ!?」
こればかりは譲れない。
気が付いたから。
そう、決めた事があるから。
「なんでよっ!? 自分でも言ったじゃない! 悪かったって、心配かけたって!」
「勿論だ。 心外だな、お前に嘘なんて言わないさ」
「意味わかんないっ。 だから人の為に無茶はしないでって言ってるのに!」
「ああ、他人の為にする無茶はしないさ」
「じゃあ何ならするのよっ!?」
「一番大切な人の為なら……俺はこれからも全力を尽くすさ」
「……え?」
これが、俺の決めたライン。
鈴の為、理樹達の為なら、どんな困難にだって打ち勝ってみせる。
でも、そこに自分を生かさないような判断は……もう、二度としない。
全てを擲ってでも、どんな手段を使ってでも失くしたくないもの。
俺がこの両手で掴みきれる大切なものは、きっとそう多くは選べないから。
「一番大切って……鈴でしょ? アンタは自分の家族を一番大切にするからね」
「……ああ、俺は家族を大切にする」
「だったらあたしに会う為なんかの無茶は二度としないで。 せめて鈴の為だけにするならまだ理解できる」
「どうして?」
「自分で決めたんでしょ! 一番大切な人にだけ全力を尽くすって! それならあたしに会いに来た事は間違いじゃない!」
「間違いなんかじゃないさ」
「無茶したじゃない! そんなボロボロの身体で!」
「今やらないと、始める事すら出来ないと思ったからな」
「何をよっ!?」
「一番大切な人を、一番大切な人にする事を」
「意味わかんないホントわかんないっ。 鈴の事だったらあたしなんかのフォローをする意味は」
「いつか、家族になろう?」
杏が、止まった。
「ずっと、俺にとっての家族は鈴だった。 大切な仲間も沢山いるけど、やっぱり俺にとっての鈴は特別だったよ」
「え…… ぁ……?」
「でもこれから先、鈴を見守っていくのは俺じゃない。 あいつの役目だ。 あいつの一番であるべきなんだ」
「……だからって、なに、それ……」
「俺が無茶をする事はないんだ。 必要以上に心配させる事もないんだよ」
もうあいつらは、十分に強くなったのだから。
保護者気分でいた俺が、自分の想いに気が付けるようになったくらいに。
「……俺が無茶をする事があるとしたら、これから一番大切になる人にだけ、さ」
「……恭介、それって」
心配させて、怒らせて。
不安にさせて、二人で回り道して。
もう一度、俺は彼女の手を取った。
本当に、馬鹿なんだと。
大切な仲間達が、大切にしたい相手が……教えたくれた。
今、ようやく始められるのかもしれない。
俺の、物語を。
「俺が無茶をしたくなる……たったひとりの相手になってくれないか?」
「……馬鹿……馬鹿……ばかっ!」
歩き出したばかりの物語。
まだまだ俺は未熟な子供だ。
だから、手を取り合いたい。
横に並んで歩いて欲しい、大切な人と。
「そんな馬鹿は…… 俺は」
彼女の瞳から涙が零れる。
いつか見たあの涙とは、まったく意味の違う愛しい雫が。
「藤林杏さん……あなたが、大好きです」
彼女の返事はいままでに見たこともない表情と共に返ってきた。
泣きながら、驚きながら、嬉しさに戸惑いながらの……想いが溢れる、笑顔だった。
そんな彼女が愛しかった。
彼女を掴む手に、自然と力がこもる。
それだけで通じ合えたのだろうか?
そのまま、俺達は……
初めて……唇を重ねた。