「ふーん、なかなか良い間取りじゃないの。 結構駅からは遠いけどね」
「ま、そんなに贅沢は出来ないしな。 ……ああ、ホントに良いな、この部屋は」
「良しっ。 ねぇねぇおじさん、この部屋ってまだ空いてるんでしょ? ……家賃はいくらまでまけてくれるの?」
「いきなり値段交渉かよ……」
呆れと共に呟いた恭介の一言だったが、内見立会いの不動産業者に食って掛かっている杏の耳には届いていなかった。
その杏は自分が住むわけでもない部屋なのに、可能な限り家賃を下げようと言葉巧みに交渉を続けている。
当の恭介といえば、背後で行われている壮絶な駆け引きもどこ吹く風。
入居者のいなかった部屋を長い間閉ざしていた雨戸を開き、ほのかに肌寒さの残る暖かな風をその身に浴びていた。
アパート二階の窓から見えるのは、馴染みのない町並み。
脳裏に浮かぶのは、まだ見ぬ新しい生活の営み。
「春……だな」
卒業式を間近に控えたこの日。
彼は新たな生活の場を定める為、以前から目をつけていた入居者募集中の部屋をその目で確認しに来ていた。
不安と期待。
それらが入り混じった、なんとも表現しがたい感情が鎌首を擡げる。
でも。
「……ミッション、スタートだ……」
迷いは、無い。
少なくとも、今は。
その決意が生まれるのに、大きな影響を与えた大切なひと……藤林杏。
部屋に視線を戻すと、その大切なひとはうきうきとした表情を隠そうともせず、これから揃えていく家具の配置に想像巡らせている最中だった。
……その横には妙に沈んだ雰囲気を漂わせている不動産業者が。
交渉の結果を確認するのが楽しみであるが怖くもあるな……
恭介は冷や汗をかきつつも、内心ではそれとは別のつっこみが浮かび上がっていた。
杏、お前……通う気満々だろ?
だが、それを口に出すのは野暮だとでも判断したのか。
恭介は言葉を漏らす事もなく、部屋の中を歩き回る杏の姿を優しい笑顔で見守るだけだった。
そんな恭介の視線に気が付いた杏は、少しばかり頬を染めつつも甘く尖った言葉を晒す。
それは程好い痴話喧嘩。
あの冬の病院から始まり、これからも続いていく……なんでもない毎日の一幕だった。
この春、彼らは高校を卒業し、それぞれの道を進んでいく。
道が違うからこそ、寄り添いあって……絆を深めて。
「リキ、今日は野球の練習をしないのですか?」
「うん。 それに明日も無理かなぁ」
「? 明日もですか?」
「週末だから出来ればどちらかの日だけでも練習したいけどね。 みんなの予定が重なっちゃったみたいでメンバーが足りないんだ」
そうなんですか~、と残念そうに眉を寄せるクド。
放課後、理樹の机周りに集まっていたメンバーの少なさから疑問を抱いたクドは、理樹から答えを聞いて見るからにしょぼーんと表情を曇らせる。
どうやらクドはこの週末ぽっかりと予定が空いてしまい、手持ち無沙汰になってしまうようだった。
仕方ないよと言葉を添える理樹だったが、自然と他のメンバーから聞いた練習不参加の理由が脳裏をよぎる。
恭介は部屋探し。
葉留佳は佳奈多と共に三枝の両親の元へ。
美魚も珍しく実家へ帰省とのこと。
そして謙吾と小毬は、明日一緒に出かけるらしい。
……言葉を濁していたが、どうやら墓参りに行くようだった。
「わふ~……ひまひまにちようびになってしまいます。 ここは大人しくいんぐりっしゅ勉強でもしてやがれって思し召しなのでしょうか……」
だんだんと縮こまりつつそんな事を言うクドを見かねて、真人が激を飛ばす。
「なんだよクー公、休みの日にまで勉強かよ? もうすぐ高校三年生だってのに不健全だな、おい」
「いやいやいや、どうしてその思考が導き出されるのかが不思議でしょうがないからね?」
全然激じゃなかった!
「不思議馬鹿だな」
「鈴? 強引に馬鹿に繋げなくてもいいからね?」
「へっ…… 不思議馬鹿、か。 ミステリアス馬鹿ってやつかよ。 ……ありゃ? なんか英語っぽくするとかっこよくね?」
「わふっ! なんかとってもすたいりっしゅですっ!」
「待てよ? ミステリアス筋肉ってのも俺らしくね!?」
「まっするが追加なのですっ!? とてもカッコイイのですっ!」
妙に盛り上がり始める真人とクド。
「理樹……」
「何?」
鈴がそんな二人を見ながら、とても悔しそうに呟く。
「最近クドがあの馬鹿に汚染されてる気がする」
「……まぁ、前から不思議と息が合ってたしね……」
「クドも真人みたいに筋肉馬鹿になるのか?」
「うん……それはどうだろうね……」
順調にテンションが上がっていく二人は、筋肉だのまっするだのといった単語を口にしながら教室から出て行った。
「これはまた意外な展開だな。 いや……落ち着いてきた、ということか?」
「来ヶ谷さん」
いつの間にか理樹と鈴の後ろに来ヶ谷さんが立っていた。
「クドリャフカ君も別の幸せを見つけかけている、というよりも楽しんでいるのだろうな」
「楽しむ?」
「ふむ、それもまた選択のひとつ、か」
「理樹、くるがやが変だ」
「来ヶ谷さん、それって……?」
「言わぬが花、なのかもしれないがな」
それはともかく、と言葉を切り、来ヶ谷は話題を転換させた。
「少し面白い情報を入手したのだが……時に少年、君は──という名前に心当たりはあるかね?」
どこからか手に入れてきた来ヶ谷情報。
それはある生徒が来年からこの学校に編入してくるというものだった。
理樹には来ヶ谷が口にしたその名前に心当たりがないようだったが……
一緒に聞いていた鈴は、むむっと理樹を睨みつける。
それは自分の知らない女性の名前だったからか。
野生の感が何かを告げたのか。
いずれにせよ。
近い将来、その人物が関る事により理樹と鈴の関係にも変化が訪れる事となる。
恭介の卒業式はもう目の前。
それは同時に、朋也達も高校を卒業する事と同意な区切りの日。
冬が過ぎて、春が来る。
全ての人に、春が来る。
どこまでも続く、長い、長いその道を桜色に染めて……
新しい日々が……幕を開ける。