「恭、介……? ……ちょっと! 恭介っ!? 恭介ぇっ!!」
彼女の悲鳴は、その部屋にいた全員の耳に届いた。
楽しく過ごしているべきその時間には似つかわしくない響き。
だからこそ、その違和感が事態の特異性を際立たせる。
その場には、一組の男女がいるだけなのに。
「恭介っ! ねぇ、恭介ったらっ!」
声の主である杏が驚きとも悲壮ともとれる言葉をかけ続ける。
必死に。
力を込めて。
だが、彼女の声は……返ってこない。
それは、一方通行ともとれる『会話』だった。
「ちょっと! こんな冗談許さないわよっ! ……なんとか……言いなさいよぉっ!」
彼女の想いを一身に受け取るべき恭介は、完全に意識を失っている。
床に体を投げ出して、上半身は杏に抱き起こされて。
大量の汗と、苦悶の表情を滲ませて。
ほんの数秒前まで会話をしていた。
いつもの彼女に見せている、嫌味の無い笑顔をほころばせていた。
小さな幸せとも言っていい、そんな時間だった。
そういった大切な思い出を省みる余裕などあるはずもなく、杏はただただ恭介を呼び続ける。
そんな彼女達に新しい声が重なった。
「恭介ぇぇぇぇっ!」
誰かが、駆け寄ってきた。
でも彼女には、それがどこか遠い世界の言葉に聞こえた。
「恭介っ! 藤林さんっ、一体何がっ!?」
彼の幼馴染が駆けつける。
──その質問は、彼女に届かない。
「っ!? 藤林女史! そんなに彼の身体を揺すってはいけない!」
普段は落ち着いた、年上みたいな年下の他校生が促す。
──その注意も、彼女には届かない。
「落ち着け杏! 棗に何があったんだ! っ!? 聞け! 杏!」
本気で好きだった男友達が声を荒げる。
──その叱責も、彼女には届かない。
彼女は声をかけ続ける。
一心不乱に。
ただ、それだけを。
時折聞こえる……気がする、彼の呻き声だけを頼りに。
とても長い間、その行動は続いていた。
少なくとも、彼女にはそう感じられた。
実際に経過した時間なんて、気にも留めなかった。
ぱぁぁんっ!
「…………え?」
だから、その音、その感触を理解するのにも、一瞬の時差が生じた。
耳鳴りがする。
頬が熱い。
その事に意識が向いた時、ようやく彼女は自分の前に片膝をつけている佳奈多を認識した。
「……私が判る?」
「あ……あ、うん」
「そう? それなら安心ね。 ……岡崎朋也さん、連絡は?」
「ああ。 オッサン達なら直ぐに戻ってくる」
「わかりました。 ……状況が判明しない限り手の打ちようが無いわね」
佳奈多は杏に抱きかかえられた恭介に軽く触れつつ、容態を確認するように呟く。
「意識は……ないのね。 ん、呼吸は大丈夫、か。 でも、とても荒い……」
「二木さん、やっぱりここは」
「……そうね。 直枝理樹、貴方の言うとおりにしたほうが良さそうね」
「うん。 来ヶ谷さん、勇み足かもしれないけど、お願いしてもいいかな?」
「うむ、お姉さんもそれがベターな判断と思うぞ。 ……どれ」
話しつつも器用に片手で携帯を操作する来ヶ谷。
電話相手は救急搬送依頼の窓口、すなわち救急車の手配を行っているようだった。
「なにやってんだよ……」
数分と経たないうちに戻ってきた古河夫妻、その夫が最初に発した一言がそれだった。
冷静だが真剣な眼差しで、恭介の姿を目に留めつつ。
彼らと入れ替わるように、朋也と渚は昇降口外へと移動していった。
到着する救急隊の案内として。
智代を含めたこの学校の生徒数名は、状況を説明する為に職員室へ。
他の者達も部屋にスペースを作るなどしている。
横たわっている恭介の側にいるのは、妹の鈴と理樹達幼馴染である三人。
そして細かな指示を出している佳奈多だった。
保健室への搬送案もあがったが、例え担架を使ったとしても動かして問題ないのかの判断が付かなかった為に保留となった。
杏が途切れ途切れに語った恭介が倒れる時の状況からは、彼ら素人に判断出来る事はそれ以上何もなかった。
その杏は、今、部屋の壁際に一人佇んでいた。
動揺していたとは言え、彼女はその時、瞬間的な判断を全て放り投げた。
それが正しいのか正しくなかったのか。
でも、現実には、何の役にも立っていない。
自分が一番良くわかっている。
視線の先にいるのは恭介と彼の幼馴染。
そして、二木……佳奈多。
今になって、叩かれた頬が痛み出してきた。
その痛みは頬だけでなく……
ただ……とても…… 痛かった……