「綺麗です……とっても……」
その公園の中。ひときわ春めいて咲き誇っている桜の下で、椋は茫然とした声を出した。
頬を撫でる柔風が、桜の花弁を躍らせる。視界には降り注ぐような桜色。
桜は散り際が一番だという言葉を身をもって識る椋に、膝元からの声がかかる。
「ホントだよねー。こうしてるととても綺麗だよ」
桜の下、敷物に座っている椋の膝には勝平の頭が乗せられていた。
「見上げると桜の花びらを背景にした椋さんの顔。凄いや。ここは天国なのかな」
「そんな。言い過ぎですよ」
「そんなことはないさ。椋さんはボクの天使なんだ。今は白衣じゃないけど、それでもボクの天使なんだよ」
「……勝平さん」
「椋さん……」
これでもかというほどの二人な世界。
「こら。場所を弁えなさいよ椋。それにうさんくさいそこの馬鹿も起き上がりなさい」
そんな桜に負けじと展開されていた桃色空間を一刀両断したのは、杏の呆れ声だった。
「よ。お疲れお二人さん」
杏の隣に立っていたのは恭介だった。肩には大きめのクーラーボックス。そして両手にもこれまた大きい紙袋を下げている。
アルコール飲料を含むドリンク類と杏お手製弁当を抱えて参上、といった風貌だ。
「わあ。助かったよ恭介クン。流石にのど渇いちゃった」
恭介が差し出すドリンクを受け取ろうと、勝平が膝枕の体勢から体を起こした。
笑顔を浮かべる勝平だったが、渡されたドリンクが清涼飲料であることに気づき、瞬時にしょぼんとした表情へと変わる。
「アルコールは待てって。せめてもう少し人が集まってから乾杯しようぜ」
人が集まってから。
そう、今日は少なくない人数がこの町へと訪れる予定となっていた。
数年前に行った草野球の試合。その日を契機として知り合っていった友人知人達が一堂に会する花見であった。
勿論全員の都合が合ったわけではない。遠くの地に赴いた者もいるのだ。
それでも久しぶりであった。久しぶりの大所帯企画だった。
発起人は理樹と恭介。
昨年末、藤林家で理樹が言い出した案件を、恭介が手伝う形でこの日を迎えたのだ。
理樹の担当は人集め。恭介はセッティング等を請け負った。連絡を取り合い、場所を決め……月日は流れて。
そして当日。今日は見事なまでの花見日和だった。
「にしてもあんた達のバカップルぶりには時折イラッとするわね。場所を弁えなさい場所を」
持ち込んだ弁当やつまみ、お菓子の詰まった箱等を広げていく杏が妹に軽く愚痴を吐く。
膝枕の光景を目にしただけでなく、天国だの天使だのといった会話も耳に入っていたらしい。
「そうかな? お姉ちゃん達だって膝枕ぐらいするでしょ?」
「そりゃするわよ。ガンガンするわよ。寧ろされるわよ。でもするしないの話じゃないの」
「……されてるんだ」
「TPOを弁えなさいっての。本人達が意識してるより、ずっとずっと周囲の人達は呆れてるものなのよ」
口と手を同時に動かし続ける杏。とはいえ箱の蓋には手をかけない。
「いちゃいちゃすんのは二人きり、もしくは身内だけのときにしなさいよ」
「そ、そんなにいちゃいちゃなんてしてないよ……」
「周り見てみなさい周りを」
「……あう」
この公園にいるのは椋達だけではない。花見目的に、また単に憩いの場として利用している人々がいた。
杏の言葉に促され彼らへと目を向ける椋だったが、どことなく視線を逸らされているような気がした。
「まぁ今日の面子なら気にしなくてもいいと思うけどね」
「……うん。でも憶えておくね。ありがとうお姉ちゃん」
「やだ。改まったお礼なんていらないわよ」
「流石バカップルマスターだよね」
「りょーうー?」
くすくすと笑みを零す椋。そんな椋に責めの視線を送る杏もすぐに破顔する。
桜の木の下。ここは本当に春で、そして春であった。
「楽しそうね、杏」
「え……あ、佳奈多っ」
杏の名を呼んだのは美女だった。
大人びた風貌に長く流れるしなやかな髪。知的な笑みをたたえた顔には落ち着きと魅力が溢れている。
「はるちんもいるよー! やっ! 杏ちんも恭介さんも久しぶりですネ!」
いえーい、とサムズアップ。陰りの無い満面の笑顔が葉留佳そのものを表していた。
「二木に三枝か? ……久しぶりだな。元気してたか?」
「元気元気。超元気さー! ねー、佳奈多っ」
「きゃっ!? ちょっと葉留佳! 重いからしがみつかないでっ」
「やははっ」
同じ顔をした、違う雰囲気を纏った、同じ想いを向け合っている姉妹。
二人は、やはり二人のままであった。
「ったくもう。……杏、これ」
「あ、差し入れ? サンキュ佳奈多」
「……なあ三枝」
「あいー? ナンデショ恭介さん?」
はるかな姉妹共同製作シフォンケーキ山盛りバケットを手渡している二人に目を向け、恭介は葉留佳に耳打ちをする。
それはちょっとした違和感。
「あいつらって名前で呼び合うほど仲良かったっけか?」
「名前? ……あー。あーあーあー。うん」
そのままうんうんと腕組みをしながら首肯を続ける葉留佳。
「なんだよ」
「仲いーよ。あの二人。とっても。恭介さんの知らないところで」
「マジ?」
「おおマジ」
杏と佳奈多は密かにメール友達な間柄であった。
互いの近況や悩み、なんでもない雑談を伝え合う仲。親友とも只の知人だとも言い表せない関係。
事の始まりや絆の馴れ初めを語るのは野暮以外のなにものでもないと。
ある程度の状況を知っている葉留佳は、この男にだけは悟られちゃいかんのですと誤魔化し半分で恭介へと体当たり。
はるちんどーん、と。
ただ、凄い笑顔ではあった。
「なにしてんだ恭介? 三枝と絡み合って」
「どこをどう見たら絡み合って見えるんだよ。……っておおっ!」
葉留佳を引き剥がした恭介は、馴染み深い声が聞こえてきた方向へと顔を回した。
そこにいたのは、親友で、幼馴染で、とても、とても大好きな……。
「おっす。久しぶり。恭介」
「真人っ」
真人だった。どこまでも真人だった。
デニムのズボンに黒いタンクトップ。そして隆々とした筋肉。髪を纏め上げているバンダナは初めて見る柄だったが。
相も変わらぬガタイはより大きく見えて。
両肩にいるクドと風子がより小さく見えて。
「ってダブルで肩車かよ! つか肩車じゃなくて肩乗せ!? それに風子かよ!」
「わふ。ご無沙汰してました恭介さん」
「高い所から参上な風子です」
クドが真人の肩に乗っているのは、まあ、百歩譲って理解する事も出来るが、何故に風子が?
予想外過ぎるオプションを装備して登場してきた真人に、驚きの色を隠せていない恭介だった。
と、少し離れたところから聞こえてきたのは謎オプションを呼ぶ女性の声だ。
「ふうちゃーんっ! ご迷惑だからそろそろ降りなさーい!」
申し訳なさそうな声色を伴なった女性は公子だった。隣には芳野の姿もある。
「……拾ったのか? そこらで」
「いや。クー公乗っけて歩いてたらよじ登ってきた」
納得。様々な謎や疑問を解明するまでもなく風子の立ち位置については氷解された。
「能美も元気そうだな」
「はいっ。……くらすいーば。……凄い……」
桜に目を奪われるクドはしきりに繰り返し呟いていた。綺麗だと。とても綺麗だと。
そんなクドのすぐ傍で音が鳴る。それは手と手を叩き合わせた心地良い音。
恭介と真人が互いに右手を上げ、高い、高い場所で打ち合わせた音が、桜舞う周囲へと響いていった。