瞳に映るは桜花爛漫。

 桜舞うとは言い得て妙だと。眼前に広がっている桜並木に圧倒され、彼女は薄紅の幻想を垣間見る。

 眼鏡を掛けた細身の女性は文字通り微動だにせず、舞い躍る花弁を眺めていた。

 

 ずっと見たいと思っていた。ただ機会がなかっただけなのだ。

 いや、それすらも後付けの言い訳か。その気になれば、この地へ赴くことなど造作もない事だったはずだ。

 足を延ばすことを自ずから避けていたのは何故だったのか。忙しかったから。桜咲く時期にタイミングが合わなかったから。 

 違う。

 あまりにも違う。

 そのような現実的な理由ではない。他へと責任を転嫁することなどおこがましい、あまりにも内面的なことなのだ。

 彼女がこの地へと訪れることがなかった本当の理由は。

 

 

 瞳に映るは桜花絢爛。

 坂の上から撫で降りてくる春風が、彼女の視界を桜色の雲で覆い尽くした。

 仄かな桜香が彼女を包む。春の優しさと労わりが、出会いと別れの香りとなって。

 

 想像通りだった。期待通りだった。夢のようだった。どこまでも現実であった。

 彼女が思い描いていた通りの光景だった。

 高校時代の……初めてこの地へ赴いた時の記憶が想い起される。

 ──春にでも来てみたいかな──

 あの時、自身の隣に立っていた少年の言葉。それが躊躇の原因でもあり全てでもあった。

 柔い笑みを浮かべていた少年。きっと。たぶんきっと、自身も同じ顔を浮かべていたのだろうと幻視する。

 約束でもなんでもないやりとり。ただの会話。けれども記憶だった。

 心に秘めた願いであった。

 彼と一緒に、この桜並木を望みたかったのだと。

 

 

 瞳に映るは桜花繚乱。

 既に彼と彼女の道は別たれている。別々の道を、方向の異なる道を歩んでいる。

 けれども、けして交わらないというわけではないのだ。伸びゆく道は交差することもある。

 それは例えば、今日、この日のように。

 一度だけ瞳を伏せ、やがて彼女は眼鏡を外した。

 大学生になってから掛け始めたその眼鏡は、彼女にとってどのような意味を持つのだろうか。

 そして振り返る。

 

「……もういいのかね? 美魚君」

 

 桜並木の入り口から……光坂高校へと続く坂道の下から、来ヶ谷の優しくも確かな声が届けられた。

 過ぎし日々の思い出を胸へ落とし込んだ西園美魚へと。

 西園は緩やかな歩調で降りてくる。

 ええ、と一言だけ返した西園の口元には、大人びた笑みが浮かんでいた。

CLANALI-AFTER STORY  第三十二話

「随分と久しいな、この町に来るのも」

 

 淀みの無い流れでブレーキペダルを踏み込む来ヶ谷。同時に助手席にいる西園へと語りかけた。

 来ヶ谷らしい繊細な踏み込み加減を感知したペダルがブレーキドラムの制動力を働かせ、滑らかに車体を停止させる。

 フロントガラス越しに見えていた黄色が赤へと変わり、来ヶ谷が運転している車の前を数人の歩行者が横切っていった。

 

「そうですね……わたしは二年ぶり、といったところでしょうか。来ヶ谷さんは」

「同じだよ。私も二年ぶりだ」

 

 停止の義務を示していた点灯が進行の権利を表示した。

 既に周囲の状況を確認し終えていた来ヶ谷は手早く左手右足を動かし、直後には車体が滑り出していく。

 運転技術を持たない、というよりも、機械全般に疎い西園にしてみれば、一連の動作は不可思議な挙動にしか思えなかった。

 二人を乗せた車は進んでいく。目的地へと緩やかに。

 

「それにしても、やはり意外です」

「意外? 何がかね? 成長の停止が見受けられないおねーさんのおっぱいがかね?」

「……そのシートベルトの食い込みは世界の敵ですが違います」

 

 じと目で藪睨みをする西園。対する来ヶ谷は、慎ましさも愛しさだが、と何処までも来ヶ谷であった。

 

「今までに何度か同乗させていただいてますが、やはりキャラクターに合いませんね」

「同乗……ああ、運転か。私の」

「はい。とても安全運転です。勿論素晴らしいことですが」

 

 来ヶ谷の運転には常に余裕があった。

 それは自身のスキルに対する過信からの余裕ではない。周囲への余裕を有しているのだ。

 

「とはいえ場合によっては追い越すこともあれば加速することだってある。そんなものだよ、運転なんてものは」

「時と場合によりけり、ということですか?」

「その通り。そしてこのような住宅街では、安全を優先しない運転など愚の骨頂でしかない」

「……ひゃっはー、とか叫びつつ無茶な細道爆走とかは、」

「私はどこぞの世紀末な人々かね……」

 

 来ヶ谷が通う大学と西園の大学は近場であった。

 高校の卒業と同時に早々と免許を取得した来ヶ谷は、西園を車に乗せる機会もそれなりにあったのだ。

 今までは、それなりに。

 

「だが、そうだな。あっちの郊外、いや、荒野の横断道路ではそんな叫び声を上げるのも一興か」

「……では、」

「ああ、決めたよ」

 

 再び信号が彼女達の車を停止させる。

 低いエンジン音だけが響く中、来ヶ谷は表情を変えずに言った。

 

「ことみ君からの誘い。受けることにした」

 

 車の前を横切る者は、誰一人としていなかった。

 

 

 

 

 

 

 大学の一回生であったのにも関わらず、来ヶ谷は着目を浴びていた。

 彼女が備えていたのは学力と知識、そして叡智。それらを発揮する機会があり、また、結果も出した。

 様々な声が掛かった。通う大学からも、また別の場所からも。

 しかし来ヶ谷はマイペースを貫き通してきた。曰く、君達には……君達の目的には魅力がないのだ、と。

 来ヶ谷は来ヶ谷たらしく来ヶ谷であり続けていた。

 やがて繋がる。偶然か、必然か、愕然か、厳然か。

 ある日、来ヶ谷のパソコンに一通のメールが届いていた。

 電子で成されたエアメール。

 送り主は……一ノ瀬ことみ。

 内容は……。

 

 

 

 

 

 

「世界は美しい琴で満ち溢れている。そして存在するのだ。薄壁一枚隣りには、もう一つの世界が」

「故、一ノ瀬夫妻による世界の提唱……ですね」

 

 ことみからの誘致。メールの出だしはとても簡潔な願いだった。

 ゆいこちゃんが欲しいの、と。

 来ヶ谷はその一文に目を通しただけで様々な想いを受け取った。

 文面の意味を知り驚いた。曲解し興奮した。落ち着いてから悩んだ。ひと眠りして妄想した。朝起きて溜息をついた。

 そして時間をかけて……決めたのだ。

 

「私はことみ君と共に世界を識る」

 

 シフトレバーに置かれている左手が微かに震えていた。

 決めたと言っても、やはり不安がある。未知がある。距離がある。日常が変わる。

 迷いがないとは言い切れない。恐怖がないとは言い切れない。

 それでも、来ヶ谷は決めたのだ。

 自身の、新たな道を。

 

「……あ」

 

 そして零れた。声とも息ともとれない響きが、来ヶ谷の口から零れて落ちた。

 感じたのは左手に乗せられた温かさ。包みこんでくれるような、西園の手の優しさだった。

 手が手を覆い、手と手が繋がる。

 

「応援、しています。何時だって。何処でだって」

 

 互いが互いを無二の大親友であると思っているわけではない。

 互いが互いに依存し合うような関係でもない。

 それでも、それだから、彼女達なのであった。

 

 

 もう、来ヶ谷の手は、震えていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 何度目かの赤信号。今度の停止は少し長めだった。

 歩行者用の信号が点滅し始めたとき、左手の歩道からひと組の家族が姿を現わした。

 笑顔で、幸せで、笑顔で、幸せな、そんな家族だった。

 視線を向けた来ヶ谷は、おやおやとほくそ笑む。

 どこかで見たような顔をした若い父親。

 どこかで見たような顔をした若い母親。

 父親が抱いているのは、小さくも大事な宝物。

 

「目的地……お花見の場所は、すぐ近くのようですね」

 

 西園の予想が笑顔と共に車内に響く。

 

 

 

 

 瞳に映るは桜舞う青空。

 出会いと別れの桜色だった。

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