テーブル中央の鉄鍋からは、じゅうじゅうという音とぐつぐつという音、反する二つの音が聞こえてくる。
焼きつつも割下によって煮込まれる、そんな聴覚のみで食欲を増進させる、極上の楽曲だった。
「もうおっけーかもね。さ、どんどん食べなさい」
菜箸を持った杏の言葉により、テーブルを囲んでいる人々のおあずけ状態が解放された。
恭介の箸が動いた。旨味を滴り落としている牛肉の一切れが、溶き卵で満たされた深めの取り皿へと移される。
杏の箸が動いた。本来持つ脂と割下の照りを纏った柔肉の塊が、取り皿の上へと盛られる。
鈴の箸が動いた。唾液を誘発させてくる香りを放つ最高な焼き加減の肉が、取り皿へと投げ込まれる。
理樹の箸は動かない。
「って、どうして瞬間的に僕のお皿が山盛りになってるのさっ!?」
「どうしてって、そりゃ理樹に肉を食べさせたいからに決まってるじゃないか」
「だってあんた、少しは背が伸びてるけどまだまだ小柄じゃない。沢山食べなさいよ、男の子でしょ」
「理樹、お前は肉を食え。食うべきだ」
「いやいやいや……」
恭介と杏と鈴。
三者が三者共々、まるで事前に打ち合わせをしたかのように、すき焼きの肉を理樹の取り皿へと運んでいる。
理樹は彼らの行為を前にどうする事も出来ず、肉山と化した自身の取り皿を呆然と見下ろした。
理樹の皿は、卵の姿が確認出来ないレベルになっている。
肉に埋もれきってしまった溶き卵。
その光景はある意味、親切心すら通り越した嫌がらせにも思えた。
「ほら理樹、こっちの肉も美味そうだぞ」
「ちょっと直枝、野菜も食べなきゃ駄目でしょうに。入れるんだから早くそのお肉食べちゃいなさいよ」
「豆腐。お前は豆腐も食え。食うべきだ」
「食べるからっ! ちゃんと食べるからっ! だからみんなは自分達の分を食べてよっ!」
理樹も成長し、自身の夢を追いかけている。
それでも彼らにとって、理樹はいつになっても理樹なのであった。
「……ううん……。もう、食べられないよ……」
「ん? どうした理樹。なんか今、許されない寝言トップスリーに入りそうな台詞が聞こえたぞ」
「寝言じゃないし、そもそも寝てないし、単に純粋な感想だよ今のは……」
居間のソファーに横たわっている理樹が、背もたれ越しに顔を覗かせてきた鈴へと言葉を返した。
藤林家の団欒を支えているソファーはテレビに向かう形でコの字型をしている。
その正面部分を占領しているのが理樹だった。
すき焼き四面楚歌(理樹命名)も終盤に差し掛かった頃、理樹は全面降伏を通告してこの場へと退避してきた。
果たして理樹はその戦いで何グラムの牛肉を食べたのか。
更には杏の一言、
『あ、野菜は肉の倍は食べないと体に悪いのよ?』
が理樹を追撃。
彩鮮やかな椎茸と春菊が、理樹専用予備取り皿へと積み上げられていくのだった。
それらを全て胃袋へと押し込んだ後での敗北宣言。
彼は本当に良く頑張った。
「あれだけ食べると冗談抜きで大きくなりそうな気がするよ」
「まだ背が伸びるのか? うらやましいな」
「残念な事に縦じゃなくて横になんだけどね……」
明日は運動でもしないとな、と思う理樹の頭上で、空気が……いや、くぐもった吐息が零れる。
閉じていた瞼を薄く開くと、横になった理樹の真上には透き通った微笑みが咲いていた。
鈴の、笑顔。
細められた瞳には慈愛が、閉じられている口元には僅かなからかいが、纏っている雰囲気には確かな愛情が感じられる。
その笑みには、しょーもないな理樹は、という言外の心が表れていた。
幼馴染としての、気兼ねない立場としての、そして、恋人としての顔であった。
「ドルジみたいになるのは勘弁だぞ理樹」
顔だけを覗かせていた鈴の頭から、尻尾を思わせるポニーテールの束が理樹の顔へとするりと落ちる。
鈴という名の甘い匂いが、理樹を優しく包み込む。
「酷いなぁ、もう」
幸せと、くすぐったさと、少しばかりの劣情を。
それが理樹と鈴の、今では当たり前となっている距離感であった。
「……藤林さんが一位で、続いて僕、鈴。ビリが恭介、と」
「あははー。直枝と結婚したのが最後に利いたわねー。というわけで恭介? 明日の朝食はよろしくー」
「……納得いかねぇ。なんだよ、この結末はよ?」
腹ごなしとしてのゲームを終えた彼ら。その表情は四者四様であった。
満面の満足感を映している勝者。両肩を落としている敗者。
たかが人生ゲームなのだとしても、彼らは存分に楽しんでいたのだった。
「理樹と杏の結婚はどうしてそんなに良い事ばかりなんだよ! 俺なんて鈴に弄ばれただけだったぞ!?」
「あたいに触るとしびれるぜ」
「鈴? ものすごく棒読みな上にその台詞の意味わかってないでしょ?」
恭介はゲーム中に鈴と結婚。
それも鈴のターンでの出来事であった為に、鈴からプロポーズされたぜいやっほーう! と恭介は喜んでいたのだが……。
『慰謝料寄こせきょーすけ』
と速攻での離婚カードの発動。とんでもないルール付きな人生ゲームだった。
「ぶー垂れてても罰ゲームは変わらないのよ。素直に受け入れなさいって」
「あーちくしょう。……明日の朝食は何がいいんだよお前ら」
リクエストぐらい聞いてやるよ、と恭介が三人を見渡す。
三人の返事はハーモニーを奏でて部屋を満たし、
「和食がいいなー」
「洋食が食べたいかも」
「中華で許してやる」
「タイミングがハモるなら内容も合わせてくれよっ!」
けらけらという笑い声を生み出していた。
「……風呂入ってくる」
「はいはーい、いってらっしゃーい」
恭介は立ち上がり、宣言通りに風呂場へと向か……わず、理樹の腕を引いて同じく立ち上がらせた。
「え? なに?」
「一緒に入ろうぜ、久しぶりにさ」
「いいよそんなっ! 一人で入ってきなよ!」
「背中流してやるって」
突然の申し出に理樹は多少戸惑ったものの、微かな逡巡の後には了承と伝える。
「仲良いわねーあいつら」
男二人の麗しき友愛を呆れ半分の瞳で眺めつつ、杏はそう呟いた。
「馬鹿だからな」
続きを引き継いだのは鈴の声。
どことなく嬉しそうな口調でもあった。
「と、そうだ」
部屋から姿を消したはずの恭介が半身だけをドアの陰から覗かせて、さも当然のように女性陣へと声をかけた。
「ん? どしたの? 忘れもの?」
杏の返事に首を振り、恭介は恋人と妹へ視線を向ける。
「折角だから二人も一緒に、ぶはっ!」
「とっとと入ってこい」
言葉を言い終える前に、杏は人生ゲームの備品を恭介の顔面へと投げつけていた。
恭介の顔から床へと落ちていくのはカードの束。床に落ちたそのカードは、その内の一枚だけが裏面を見せる。
それは恭介の敗因にもなった、鈴が使用したカードであった。