従業員用の裏口から、外へと一歩足を踏み出した。
冷たい夜風が首元を薙ぐ。下顎が反射的にマフラーへと沈む。
……暖房の効いた店内とは比べ物にならない寒さだ。
単純な温度差なら年末である今よりも二月あたりの方が寒い筈なのだが、どうしてか毎年この時期が一番寒く感じてしまう。
それが彼女の感想であった。
気分的な問題なのか、それとも時期的なイメージがあるからなのか。
ともあれ一層身を縮こませるしか対処方法はないのだが。
首元、手元にファーの付いた暖かそうなロングコートを纏った彼女は、家路へと足を向ける。
アルバイト先であるこの場所は、自宅からは徒歩で二十分ほどの距離がある。
自転車や原付を利用すれば半分以下の時間で通勤することも可能であるのだが、彼女は徒歩を選び続けている。
理由は、特にない。
あるとすれば……習慣のようなものなのだろう。
かつて彼女はこの通勤路とほぼ同じ道筋を、毎日、毎朝、歩き続けてきた。
それは当たり前の行為だった。だからだろうか、現在も同じように続けているのは。
店を発ってから数分後。道端にある電灯の下を通り過ぎようとした、その時だった。
必需品のみを入れた小さな手提げ鞄の中から聞きなれた音楽が響いてきた。
3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ、ニ長調。
通称、パッヘルベルのカノン。
幾度も繰り返され、やがて少しずつ変化していく曲調。この曲は彼女のお気に入りの曲であった。
心休まる音楽として。それだけではない何かの縮図のような気がして。
──彼女が鞄から取り出したのは携帯電話であった。
飾り気の少ない、シンプルな折りたたみ式の機種。
ちらりと揺れる子猫のキャラクターを模したストラップが、彼女なりの可愛らしさをアピールしていた。
彼女はそのまま携帯を開き、耳元へと当てる。
通話の開始を告げる単純な操作音が、電子音へと変換されていたヴァイオリンの旋律を優しく静めた。
「もしもし……はい。こんばんは、春原さん」
彼女、仁科りえの口調は。優しく、暖かな微笑みと共にあった。
『うん、それで?』
「来週にはもう新年でしょう? 春原さんはそれならタイミングも良いしって」
『そっか。うん、そうかもね。りえちゃんは予定とか大丈夫なの?』
「平気だよ。そっちは?」
『こっちも大丈夫……のはず』
「はずって、そんな適当な」
『うそうそ。もー、りえちゃんは相変わらず真面目さんだよね』
仁科の部屋に朗らかな笑い声が零れてくる。
電話相手である杉坂の声が、仁科の携帯越しに漏れているのだ。
仁科は未だ髪を濡らしたままの恰好で自身のベットへと腰を下ろしている。
帰宅後すぐに入浴を済ませたのだが、ドライヤーを使うよりも早く、旧友であり同僚でもある杉坂と連絡をとったのだった。
用件を済ませた後は気心の知れた友人同士による他愛もないやり取りが続く。
その大部分がアルバイトに関係する話題であった。
現在、仁科と杉坂は、卒業した高校近くに開店したファミリーレストランでアルバイトをしていた。
専門学校へ通う為の資金繰りというのが主な目的であったが、それとは別に、今の仕事を楽しんでいるのも確かであった。
頼り甲斐のある店長。仲の良い同僚。仕事自体は少々大変な事もあったが、それでも現状を謳歌している彼女であった。
ちなみに大変な事、というのは接客がどうのこうのというわけではなく……。
制服が体の一部分を誇張しているような気がしないでもないでもなくもあったりする、そんな悩みだったりする。
仁科自身、プロポーションに問題を抱えているという事ではないのだが、そこに立ち塞がるのは性格による気恥ずかしさだ。
頑張って慣れようと努力している仁科であったが、こればっかりはそう簡単に乗り越えられそうもない。
その辺りは親友である杉坂の性格が羨ましくもあった。
開けっぴろげに、気にすることないよー、と人の悩みを一刀両断してくれやがったあの日の言葉は忘れやしない。
そんな性格をしている親友は、時折、ほんの時々だけ乙女な顔を見せる事がある。
それがまた普段のギャップと相まって可愛く感じたりするのだが、それはそれ、これはこれ。
『で、確認しておきたいんだけど……』
「ん? なに?」
話題が一段落したところで、杉坂が仁科へ定例ともいえる質問を投げてきた。
定例というのはあくまでも杉坂の主観でしかないのだが。
『春原さんと何か進展はあった?』
「進展……?」
『そ。どれだけ前に進んだのかなーってこと。あの人に会うのも久々だしね。二人の事は知っておかないと』
「進む……んー……」
沈黙。杉坂の耳に聞こえるのは仁科の悩ましい吐息のみである。
「あ」
『おっ!?』
何かあったのかこやつめ。杉坂の心に嬉しさと楽しさが舞い踊った瞬間であった。
「年明けに渚さんのお見舞いを兼ねた新年の挨拶に行く約束をしたよ」
『それは知ってるってっ! ってゆーか今夜の電話で最初に確認してきた話題じゃないのそれっ』
「?」
『おーけー。わかってる。今のりえちゃんの表情は手に取るようにわかってる。何も言わなくていいからね』
「そうなの?」
『そうなの。っと長話しちゃったね。そろそろお終いにしよっか』
「うん。またお店でね」
『次にシフトが重なるのは……明後日かな』
「だと思う。詳しくは明後日のお仕事が終わった後にでも」
じゃあおやすみなさい、と。
それが長電話の終わりを締める言葉となった。
仕事の帰りにかかってきた電話。
それは今は遠くにいる元先輩、春原からの誘いであった。
年明けにこの町へ顔を出すつもりであると。久しぶりに会おうかと。
そして、お互いの友人である岡崎夫妻への挨拶に行かないか、と。
岡崎渚。
仁科の旧友にして、アルバイト先での同僚である女性。
しかし、渚は現在仕事には出ておらず長期の休暇をとっている最中であった。
愛想も良く、しっかり者で、その上気が利く同僚である渚。
彼女の不在は店舗にとって大きな損失でもある。
それでも渚の休暇は諸手を上げて喜ぶべき事態でもあった。
なぜなら、今、渚のお腹には……。
「へーちょっ」
今のはくしゃみである、と説明されなければ誰しもが音の発生源を探してしまうであろう。
髪が濡れたままであったと気づいた仁科は、慌ててドライヤーを手に取った。
「風邪なんか引きたくないな……」
そう思いつつもドライヤーのスイッチを入れる。
無常にも彼女の髪は、既に半乾きの装いを示していた。
翌日。体温は37度まで上がった。
時間は流れる。
ゆっくりと。しっかりと。
変わらないような日常を繰り返していても、確かに進んでいく見えない流れ。
それはあたかも……微熱を悔やむ羽目になった少女の、お気に入りな曲目のように。
渚の夫である朋也。彼が卒業してから、約二年の月日が流れた。
そして、少年であった理樹。彼が卒業してからは、既に一年近くの時が過ぎ去っていた。