「クー公。もっかいだけいいか?」

 

 真人がクドリャフカの前に立つ。

 だが、続く言葉がなりを潜めてしまう。一度は口を広げたものの、戸惑いが彼を縛っていた。

 伝えたいことがある筈なのに、それでも彼は直接的な言葉を紡ぐ事が出来ない。

 言うべき事はとても単純であったのに。

 幾許かの逡巡。僅かとはいえない時間が刻々と過ぎていく。

 それでもクドリャフカは彼の目の前で待ち続けていた。

 彼の想いが言葉に変わるまで、今か今かと、いつまでもいつまでもと、待ち続けた。

 

 

 

 やがて。

 彼はその言葉を告げた。

CLANALI-AFTER STORY  第二十四話

 少しだけ、過去の話。

 

 

 それは夏休みを間近に控えた放課後の一幕。

 野球部の部室にいるのは真人とクドリャフカの二人。他の仲間達の姿はなかった。

 その日の練習を終えた彼ら二人は、不定期での当番制である部室掃除を行っていた。

 夏の夕暮れ。茜色に染まった部室の中で、それでも二人は特別でも何でもない時間を過ごしている。

 二人だけだとはいえ、そう広くもない部室だ。掃除を終わらせるのにも労力はそう必要としない。

 既に掃除の殆どは完了しており、後は寮へと帰るだけなのであったが、その日だけは少しだけ違っていた。

 原因は掃除中に偶々見つけた古ぼけたダンベル。

 特に意味はなくそのダンベルを使い始めた真人は『筋トレしながら何かする』という『ながら行動』を続けていた。

 ながら掃除。ながら会話。そして現在行っているのは、ながら筋トレ。

 片手にはダンベル。そしてもう片手には水の入ったペットボトル。その状態のままスクワットをしている真人。

 筋トレしながら筋トレをする、という手段と効率と目的が三回転半の着地をした挙句な唯の筋トレである。

 それでも真人にとっては悟りを開いたかのようなものである。

 自身が発見したながら筋トレの極地に軽い陶酔感を憶えていた彼は、ここ数日以来の絶好調な気分であった。

 

 そんな真っ盛りな彼を呆れつつも優しく見守っているのがクドリャフカだ。

 彼女は椅子に腰を下ろし、上下にスクワット運動を続けている彼の背に言葉を投げかけた。

 

「井ノ原さんはどうしてそんなに筋肉さんが好きなんですか?」

 

 その言葉に深い意味があったわけではない。

 何気なく口をついた質問であった。

 

「そりゃよ、ふんっ。いいじゃんか、ふんっ。だって筋肉だぜ? ふんっ」

 

 質問と回答の形を放棄したかのような彼の返事。クドリャフカは彼のそのままな姿に苦笑する。

 

「でしたらもっと食生活にも気をつけるべきなのです。好き嫌いが多い子は筋肉さんも寄り付きにくいのですよ」

「そうかー、ふんっ。ほうれん草とかの野菜も、ふんっ。肉みたいな味に、ふんっ。なんねーかな、ふんっ」

「お肉の味ですか? それなら沢山食べられそうですか?」

「食べるぜー、ふんっ」

 

 筋トレが彼の中で佳境になってきたのであろう。

 返事は少なくなってきたものの、運動に集中してきた所為か、普段以上に素直な言葉が返ってくる。

 そのままいくつか質問のやりとりが繰り返されていった。

 他に何が苦手ですか? どう調理するのが好みですか? ……私のごはんは美味しいと思ってくれていますか?

 クドリャフカは気が付いていた。今の真人は筋トレに夢中であり、ほぼ無意識な返答をしている事に。

 そして真人は気が付いていなかった。それは無意識だったから。飾りもしない言葉で答えている事などには。

 

「……じゃあですね……」

 

 口籠るクドリャフカ。次に聞こうとしている質問は、聞きたくても聞けない、ちょっとだけずるい問いかけであった。

 だけど。

 

「……井ノ原さんにとって、私はどんな子ですか……?」

 

 だから。

 真人が答えたのは無意識の一言。

 意識しているときに聞かれたら、絶対に答えなかったであろう、井ノ原真人にとっての能美クドリャフカへの想いであった。

 

 

 

 

「……ふう。なかなか賢い選択だったぜ。流石俺だ。筋トレと筋トレのコラボレーション企画を発明しちまったな」

 

 満足のいく筋トレを終わらせた真人は、動きを止めてクドリャフカへと振り返る。

 そこにいたのは、とても、とても柔和な笑みを浮かべた、一人の少女であった。

 

 

 そんな、初夏のひととき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しだけ、先の話。

 

 

 紅葉舞う中庭の片隅。

 この時期の中庭は昼休みを過ごす生徒達にとって人気の場所である。

 食事をする者、木陰でまどろんでいる者、会話を楽しんでいる者。様々な生徒達が思い思いに過ごしている。

 そこにひと組の男女の姿があった。

 男性は大きな弁当箱を持ち、次々と料理を口に運んで。

 女性は小さな弁当箱を傍らに置き、お茶を水筒から注いで。

 笑顔で食事をする彼は、しっかりと噛んでくださいと女性に窘められ。

 はにかむ女性は、ごちそうさまと告げてくる男性におそまつさまでしたと答える。

 

 そんなに大きくないビニールシートを敷いている二人であったが、体はシートからはみ出してはいなかった。

 二人の距離が縮まった分だけ、座るスペースは小さくなる。

 ただそれだけのこと。

 

 夏の旅行を行う前であったら、おそらく男性はシートからはみ出していただろう。

 夏の旅行を行う前であったら、彼女は自らの意思でここまで間近に座るということはなかっただろう。

 仲間達と過ごした海。はしゃいだ夜。我儘と喧嘩。伝えた言葉と伝わった想い。

 

 あの夜真人が二度目に口にした言葉は、あの場にいた全員が耳にした。

 事の始まりが罰ゲームであったことに意味はない。結果は今が全てであった。

 あの夜真人が言った最初の言葉。どうして娘みたいだなどと言ったのかは、真人本人しか知らない。

 照れか羞恥か。もしくは『誰かに遠慮していた』のか。今、それを探る事に意味はない。

 あの夜クドリャフカが怒った理由。その真意を把握しているのは彼女自身だけ。

 単にそう捉えていて欲しくなかったのか。溜まった鬱憤でもあったのか。それとも『彼の本心』を知っていたのか。

 そして。

 あの夜を越えて何が変わったのかは……。

 

 

 秋も深まり、やがて冬が訪れる。

 とはいえ寒さが到来するまでは多少の猶予がある。もうしばらく昼食を外で過ごすのも悪くはなかった。

 

 

 

 

 今日のお弁当は、そぼろご飯と根野菜の煮物。

 それと、ほうれん草の胡麻味噌和え。

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