「……ふぅ」

 

 軽い溜息が零れた。

 夜半とはいえ今は夏。

 多少涼を含んだ夜風がそよいではいるものの、纏わりつく太陽の余熱は十分なまでに熱帯夜を生み出していた。

 手に持っているビニール製の買い物袋ががさりと揺れる。

 いや、揺れるというよりも、揺らしたというのが正しい言葉だったのか。

 内容物の重みを紛らわせようと袋を右手から左手へ持ち替えたのだ。

 同時に袋の中からは鈍い金属音が聞こえてくる。

 今この場で聞こえるのはそんな荷物の擦れる音と、風に紛れて漂ってくる潮騒のさざめきだけだった。

 ぽつりぽつりと点在している街灯が旅館までの道筋を照らしている。

 

 何が悲しくて猫缶なんて買ってこなけりゃならねぇんだよ、と。

 

 一人夜の帰路を歩む秋生はやれやれと独りごちる。

 彼は滞りなく罰ゲームを完遂し、旅館へと戻ってきたのだった。

 鈴が書いたらしき『モンペチ買え。今。味の指定は勘弁してやる』という紙を引き当てたのも今は昔の話。

 袋一杯のモンペチは彼なりの反抗心なのかもしれないが。

 

「おかえりなさい、秋生さん」

「ん? ああ、早苗か」

 

 かけれた声は聞き間違える事のない声。

 妻である早苗が旅館の玄関口で秋生の帰りを待っていた。

CLANALI-AFTER STORY  第二十一話

「わざわざ降りてきたのか? ったく。お前も出迎えなんてしないであいつらと楽しんでろよ」

「はい。もう十分に楽しませてもらいました。でもやっぱり若い方達は違いますね。まだまだ元気でした」

「なーに言ってんだ。お前だって若いだろ」

「そんなことありませんよ。私はもうおばさんです。ですから、」

「あほ。お前はいつまでも綺麗だよ」

「……ありがとうございます、秋生さんっ」

 

 秋生の言葉を受けた早苗は心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 嘘偽りのない本心なのだと分かっているのだろう。

 時折、本当に時折。秋生は勢いからではない言葉を口にすることがある。

 普段から叫んでいる言葉とは違う、しっとりとした言葉を。

 飾り気のない、彼の本心を。

 

「ま、俺様だってかっちょいいけどなっ」

 

 にかっと笑う早苗の愛する夫。

 藪睨みのような彼の瞳も、笑顔になる時だけは糸のように細まる。

 彼女はこの安心できる笑顔に幾度救われてきたことだろう。

 この夫婦にも様々な出来事があった。

 出会いがあった。すれ違いもあった。

 喧嘩もした。仲直りもした。

 愛を育んだ。愛の結晶を失いかけた時もあった。

 その度に救われてきたのだ。いや、支え合ってきたのだ。

 夫婦として、最も近くにいる家族として。

 

「……秋生さん」

 

 だが彼女にとって、秋生は夫なだけではない。

 それは、今のように何でもない時に知らしめてくれる事実。

 

「秋生さんは、いつでもかっこいいですよ」

 

 秋生は早苗の……恋人なのだ。

 どれだけ時間が経とうとも、どれだけ生活が移ろうとも。

 彼女が愛する一人の男性。

 早苗は今でもいつまでも。

 秋生に恋をしていた。

 

 

 

 

 曇りがちな自動ドアのガラスがゆっくりと閉まっていく。

 閉まりきるドア。半透明な隔たりが彼らの影をぼんやりと映している。

 一人の男と、一人の女と。

 二人の間にあるのは、持ち手を大きく左右に広げたビニール袋。

 互いに片側ずつ持ち手を握り、二人一緒に歩いて行く。

 腕を組んでいるわけでもない。抱きしめ合っているわけでもない。

 それでもその姿は、どこまでも寄り添い合っているかのように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてまったく同じ時。僅かに違う場所で。

 

 微かなすれ違いと、大きな隔たりが芽吹いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エレベーターから降りた二人が感じたのは違和感だった。

 彼らが子供達と宿泊している部屋はエレベーターを降りた直ぐ傍の広間だ。

 秋生が買い物に出た時もそして早苗が秋生を迎えに出た時も、廊下には彼らの楽しげな声が響いていた。

 そう流行っている施設ではなかったのか、この階は彼ら以外の宿泊客がいなかった。

 だからこその騒ぎようでもあったのだが。

 しかし今は、静寂が横たわっている。

 そう、声が聞こえてこないのだ。

 

「……なんだ? やけに、」

「静か……ですね」

 

 秋生の感想を早苗が続ける。

 それは言葉の通り、子供達の童心に返ったような騒ぎ声が聞こえてこないことに対する呟きであった。

 疑問と共に顔を見合わせる二人。

 それでもこの場に立ち止まる理由にはならない。

 数歩だけ歩き、部屋の扉に手を向ける秋生。彼の隣に寄り添う早苗。

 まさに今、扉を開こうとした、その瞬間であった。

 

「そんなこと言われたくはないのですっ!」

 

 声が、響いてきた。

 甲高く、感情が先走りしている叫び声が。

 

 間を置かず、すぐさま開いたその部屋の中にいたのは、彼ら全員の姿。

 そして、小さな一人と大きな一人。

 小さな影は、大きな影を責めているようで。

 なのに小さな影は、どこまでも……どこまでも。

 

 その身を、震わせていた。

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