四月。心持ち肌寒い風が頬を撫でる朝。
道沿いの壁から藤の花が頭をもたげている。まるでこちらを覗きこむかのように。
藤の花。薄紫の華。
朋也はその花を見てある人物を連想していた。藤の花のような、でも、既に藤の林ではなくなった女性の事を。
学生時代から付き合いがあり、そして今では……。
「ぱぱ?」
「っと……悪いな汐」
物思いに耽っていた朋也を呼び戻したのは汐の声だった。
繋いでいる手が二人の腕の限界近くにまで伸びてしまっていた。
朋也は藤の花を視界に入れた際、どうやらその場で立ち止まってしまっていたらしい。
「んー。おはな」
汐は舌っ足らずな声で朋也の視線の先にある物体の名を呼んだ。
「そうだぞ汐ー。名前もわかるか?」
「……きれい」
「ああ、そうだな。とても綺麗だ」
四歳児では藤の花という答えは少し難しかったのだろう。
しかし名は答えられなくとも、純粋な感想を述べた娘の感性に対し目尻を下げてしまう親馬鹿がそこにはいた。
「せんせいみたいなおはな」
「先生って……汐、お前も……そう思ったのか?」
「とってもきれい」
藤の花。薄紫のしなだれ花。棗杏。長い髪を持つ軽快な華。……旧姓、藤林。
勿論汐は杏の旧姓にまで考えを巡らせてはいないのだろう。ただイメージとして言っただけなのだろう。
それでも同じことを考えたのだ。父親である朋也と。
「……ああ、とても綺麗だよな」
「うんっ」
娘と想いが重なったことが嬉しかった。だから朋也はそう答えたのだ。
見た目のまま、藤の花がきれいだな、と。
聞こえてきた返事は汐の元気な声。
……それと、
「……朋也くんは……朋也くんは……っ」
「え……渚?」
「藤の花を見てうっとりしてしまうほど杏ちゃんのことが好きだったんですねーっ!」
涙を溜めてその場から駆け出す渚の声だった。
朋也とは反対側から汐の手を握っていた渚であったが、既に行動開始、学生時代の儚さとは程遠い健足っぷりである。
「渚っ!? お前それは深読みしすぎだろっ! ……って聞こえちゃいねえ! 汐、ここで待てるか?」
「ほいくえんすぐそこだからひとりでへいき」
「そこ曲がったらすぐだよな……車が来ることもないし……。汐、大変な旅になるけど大丈夫か?」
「がんばる。ぱぱもままつかまえてきて」
「……わかった。ママと一緒に追いつくからな」
「うん。いってらっしゃい」
百万の応援を得た朋也。
彼は一度だけ深呼吸をして渚の走り去って行った道を見据えた。
「すぅー……。渚ぁーっ! 俺は大好きだぞーっ!」
全身全霊ともいえる勢いで、朋也は渚の後を追いかけていく。町の名物というか、やな相伝というか。
「ままとぱぱ、とってもなかよし」
四歳の娘に生暖かく見守られるおしどり夫婦であった。
「なべー」
幼稚園の入り口が見えるや否や、汐は『鍋』と口にしつつ駆け出して行った。
門の陰から聞こえるのはふごーふごーという息遣い。
ぬっ、と姿を現した彼は、汐の身長を楽に凌駕する体を持った猪であった。
「なーべ。なーべー」
ぎゅうっと。
心底安心した笑顔で猪に抱きつく汐。一方の猪もまた、どことなく嬉しそうな瞳である。
「なべ、ことしもよろしく」
ふごー。会話のようで、そうでもなくて。
ともあれ汐と猪にとって、日常茶飯事な光景であることだけは確かなのであった。
と、その一人と一匹に声がかけられた。
「あれ? 汐ちゃん一人?」
「せんせいおはようございます」
「はいおはよ。今日も汐ちゃんはいい子よねー。で、甲斐性無しかママは一緒じゃなかったの?」
去年一年間、この幼稚園で汐の担当をしていた保育士、棗杏の疑問である。
今日は四月の初め。幼稚園でいえば始業式のような入園式のような、そういった類の日であった。
杏が知っている汐の両親は、こういった日に娘を一人にしているはずもないのだが。
「ってもしかしてお家からここまで一人で来ちゃったとか?」
「そこからひとりできた」
「そこ……って、そこ?」
汐が指を射した場所は門の外、数十メートル先にある曲がり角だ。
「ぱぱとまま、おいかけっこ」
「……はぁー。またやってんのあの二人は」
「ぱぱがせんせいきれいっていって、ままがさなえさんになった」
「どういう状況よ……っていつもどおりなのね……」
園児の拙い説明でしかなかったが、それでもある程度理解出来てしまう岡崎夫婦のやりとり。
古河夫婦も昔と同じくこのやりとりを続けているのだろうか。
杏は軽く溜息を漏らし、続けて汐に言った。
「うちのがあの辺にいるから一緒に待っててくれる? 目印は恭介ね」
「わかった。なべーまたね」
汐は言われたとおりに玄関側へと向かっていく。
少しばかり周囲を見渡した後、目標物を発見したのか、迷いの無い足運びで進んで行った。
「で? 朝っぱらから夫婦漫才?」
「悪かったよ」
「ごめんなさいでした」
朋也と渚が姿を現したのはその後数分後のことであった。
早速杏のお叱りを受けている夫婦。その光景は、見る者が見れば、いつかの焼き回しのようにも受けとれた。
「ところで汐は? 断腸の思いで果てのない旅路へと向かわせたんだが、」
「少し黙りなさい」
「……はい」
ひと睨みで大人しくなる朋也。
「汐ちゃんならとっくに来てるわよ。あんたと違って利口な子だしねー。渚似で羨ましいぐらいね」
「あ、ありがとうございますっ」
「……渚はいつになっても若々しい奥様でずるいわよね。相変わらず可愛いし」
「まーなっ」
「あんたには聞いてない」
朋也と渚と杏。
いつになっても、いつになろうとも。
変わらない空気と距離間が彼らの間には存在していた。
「でね渚、今年も汐ちゃんの担任になったから」
「そうなんですか? 二年連続で杏ちゃんにお世話してもらえるなんて、しおちゃんも喜びますっ」
「あははー。だとしたらあたしも嬉しいわ」
去年。園児一年生となった汐は担任である杏にべったりであった。
言うまでもなく汐にとって一番の存在は渚と朋也ではあるのだが、秋生や早苗を慕う様に杏を慕っていたのだ。
それは幼稚園で一緒にいる時間だけでなく、親の友人としての顔を見ていたからなのかもしれない。
汐はこの話を聞いて、きっと喜ぶことだろう。
渚には確信できていた。
「ところで朋也ー? 今さっきの『うげ、まじかよ』って顔はどういうことなのかしらね?」
「さってと、愛しき愛しきお姫様はどこにいるのかな……と」
「あからさまに目を逸らすんじゃないわよ」
「ぱぱー、ままー」
その時聞こえてきた愛娘の呼び声に、朋也はナイスタイミング流石我が娘と呟く。
当然の如く杏の耳には届きまくっているわけなのだが。
「汐ー。待たせたなー」
「待たせたって言うよりは恒例行事って感じだったらしいじゃないか」
「気のせいだ気のせい。相手してくれてたのか? ありがとな」
「それこそ気にすんなって。渚さんもおはようございます」
凛とした声。
汐の手を取って歩いてきた青年は少年の様な笑顔を浮かばせている。
以前よりも少しだけ大人びた雰囲気を纏った姿。でも、けして変わらない笑顔。
棗恭介は、どこまでも、棗恭介であった。
「しおちゃん、棗のお兄さんにありがとうって」
渚の言葉に頷いてから、汐は恭介と手を離してぺこりとお辞儀をする。
「きょーすけおにいちゃん、ありがとう」
「こっちこそ。楽しかったよ、汐ちゃん」
「えへへ。……それと、」
汐は恭介の隣、自身の手を繋いでいたのとは反対側の腕へ視線を向けて、
「ようちゃんもありがとう。またあとであそぼうね」
自分よりも僅かばかり背の低い少女へと声を送った。
「うんっ。ありがと、しおおねえちゃんっ」
返事は活発な声。
恭介の手を握っている少女は、今年入園で汐のひとつ年下。
にぱっと笑うその顔には、遊びに夢中な恭介の顔と、面倒見の良い杏の頬笑みといった、二人の面影が存在していた。
汐に倣ってぺこりとお辞儀。
肩口まで伸びた髪の毛と、顔の左側で髪の一房を結っている白いリボンがふわりと舞った。
「それじゃそろそろ行きましょうか。入園式が始まりそうよ」
「葉。ママはお仕事だからパパと一緒に行こうな」
「うん」
杏の声に恭介が反応し、少女の手を引いていく。
「朋也くん、わたし達も行きましょう」
「だな。汐、待たせてごめんな」
「へいき」
渚の言葉に朋也が応え、汐の手を引いていく。
二つの家族が進む先は、近くて、遠くて。
親に手を引かれた少女達は、互いに笑顔を見せ合っている。
岡崎汐。園児二年生の、ちょっとだけお姉さん。
棗葉。園児一年生の、ちょっとだけ背伸びした子。
小さな二人が歩む道には、どれだけの物語が待っているのだろうか。
小さな二人が歩んできた道には、どれだけの物語があったのだろうか。
……小さな二人に繋がる絆は、それこそ幾千にも伸びていて。
繋がる絆は想いとなる。
想いは想いと重なり合って。
いつか想いは家族となって。
家族の物語は……これからも繋がり続ける。