冬が終わったとは言い切れない春先の一日。
未だに薄ら寒さを感じさせる西風が、そわりと彼の肩を撫でていった。
彼は冬の名残を伝え含む風をその肌で感じ、ひとつ軽い溜息を零す。
しかし春も下旬となった空気では、息も白く濁ることもなく。
終われば暖かさが訪れるという季節の風――彼岸の時期に吹く西風は、彼の内心の後悔をよそに、微かな春の訪れを匂わせていた。
「なんか、寒ぃ……」
けれども、ひとりごちた言葉は季節の変わり目に気づく様子もなく、体の冷えを再確認するだけ。
見上げた頭の上には、雲ひとつない三月の空。
強くはないが、確かに自身の主張をしている太陽を、視界の端にそっと捉える。
……ふとしたことを切っ掛けとして、記憶というものは赤裸々に浮かび上がってくるものだ。
高校生活最後の夏。打ち込んだ野球。仲間との絆。泥と汗の匂い。注ぐ日差し。打ち上がった白球。取れなかったセカンドフライ。
「くっそ。なんで未だに凹んでるんだ俺は」
八ヶ月と少し。その時間は痛みを癒すのに十分な長さなのであろうか。
打ち込んだもの。取りこぼしたもの。それらが風化するのは、はたして何時のことなのか。
必要なのは時間なのだろうか。それとも別の何かなのだろうか。
答えはみつからず、それ以前に探そうともせず、彼は見知らぬ町を歩き続ける。
手にしているのは野球道具。身につけているのは引退した部活のユニフォーム。
卒業後、進路も決めていなかったがために生まれた三月頭からの日々。そんな中でたまたま服に袖を通しただけだった。
どこか遠くで、自分のことを誰も知らない場所でと、無心でバットを振って過ごした半日。
それが今日。今はその帰り道だった。
「……んー、髪も伸びたな」
坊主頭だった頃を懐かしむように、目にかかる前髪を摘まもうとして……突然全てが降りかかってきた。
聞こえたのは懐かしい音。金属バットの打撃音。
聞こえてきたのは背後から。散漫に歩いていた記憶の片隅で、小さな公園を通り過ぎたことを思い出した。
感じたのは衝撃。丸く固い何かが背中に当たったのだと。
「いってぇっ!?」
予想外な襲来に判断能力が追いついてこない。とにかく痛いの一言だった。
続けて届けられたのは、知らない男の大きな声。
「あぶねえぞー。そこの坊主、避けろー」
「おっせえよ! っつか当たった後に言われたってどうしようもねえっての!」
痛みを振り払うことが目的である叫び声を吐き出しつつ、彼は背後を振り返る。
公園の中には犯人とおぼしき姿が二つ。
ひとつはどこかのおっさんだった。不思議と似合うエプロンを身につけて、わりいわりいと声を上げている。
もうひとつは自分より僅かに年上な青年で。子供のように無邪気な笑顔のまま、大丈夫かーと手を振っていた。
――ほら、ユイ。今日も良いお天気ね。
――そうだね。
――どこかお散歩に行こうか? 車椅子も新しくなったことだし。
――ううん。大丈夫。お母さんもゆっくりしていて。
――そう?
――だって。風、少し冷たそうだもん。今日はこのままテレビでも観てる。
――……わかったわ。ユイがそうしたいのならそうしましょうか。
――うん。
――……でも、きっと暫くしたら暖かくなって、日向ぼっこが気持ち良くなるわね。
――日向ぼっこ?
――そうよ。この時期に吹く西風が止むとね、あれよあれよと言う間に春がやってくるのよ。
――ふーん。そうなんだ、春の日向ぼっこかぁ。きっとそれって幸せなお日様だよね。
――ふふ。そうね。それじゃあそれまで風邪なんて引かないようにしないと。……もう少しベットの中に入りましょうね。
――ん。ありがとう、お母さん。
「っつかエラーしてんじゃねえよ」
「人にボールをぶつけておいて最初の一声がそれかよ!」
被害者である彼は、自分の身に何が起きたのかを理解した後、ぶつけられたボールを手に持って公園の中へと入っていった。
元来頑丈な体であった彼。経験上野球ボールが当たることは幾度となくあったが、一言だけでも文句を言ってやろうと思ったのだ。
公園とはいえ町中で野球やってんじゃねえよ。っつか痛えっての。
危ないって警告すんのが遅えって。っつかマジ痛えっての。
数多の罵詈雑言が脳内を駆け巡ったのだったが、結果的にはその全てが無駄となり、まさかのつっこみスタートな出会いとなった。
「野球小僧だっつんならな、あそこで、こう、バッと振り返りつつだな」
「鞄からグローブを取り出してボールをキャッチ! ぐらいしてほしいとこですよね」
「無茶振りなおっさんも追従フォローなお前もアホだろマジで! なんだよあんたら!」
「俺様か? 俺様はこのあたりじゃ一番の男前で有名な古河秋生様だ。アッキー様かっちょいいって呼べ」
「呼ばねえしどんだけ自信過剰なんだよおっさん!」
古河と名乗った男へのつっこみに大忙しな彼だった。そして隣にいたもう一人の男の自己紹介が始まる。
「俺は……誰だ?」
「知らねえよっ!」
「おい恭介」
「はい、なんですか古河さん?」
「隠す気すらねえじゃねえかよっ! なんだ、なんなんだこの町は!? アホしかいねえのかよ!」
「よっ、アホ」
「俺じゃねーっ! あんたらのことだよっ!」
「まぁ落ちつけよ。どろり濃厚でも飲むか?」
「嫌がらせかよっ! ったく……恭介だっけか。あんた、そこのおっさんに負けず劣らずヘンなやつだな」
「照れるぜ」
「なんだよその満面の笑顔は……」
つっこみ疲れて怒る気力を失ったのか。彼は肩を落とし、ぶつけられたボールを二人に差し出す。
とにかくこの場を去ろうかと、この二人に関わってはいけないのだという判断を下した。
しかし、そうはさせるかと、恭介と呼ばれた男が彼の肩に腕を回す。
借りを返させてくれと。バットでボールを打ったのは自分だ、謝るのが遅くなって悪かったなと。
終いには、今はジュースぐらいしか奢れないがお前何飲みたい? と爽やかに言葉を続けるマイペースな男、恭介だった。
「飲みたいもなにも……。あんた今、そのどろりなんとか以外になんか持ってんの?」
「いんや、買いに行く」
当然のように言い放つ恭介。対して彼は多少の驚きを覚え、公園内に視線を向ける。
「こんな公園に自販機とかあんのか?」
辺りを見渡すと死角すらない程度の大きさな公園だった。
さっと見たところ、あるのは砂場に児童向け遊具が数点。売店なんてあるはずもないが。
「あ、あそこに店があるのか……パン屋?」
公園に面した道の向いに一軒だけ。営業中かとおぼしき店舗がひとつだけ目に入った。
なんとなく看板に目を向ける。書いてあった文字は、……古河。
「もしかしておっさんの店だとか?」
「ほほう、良い着眼点じゃねーか坊主」
「お褒めに与りましてどーも」
「ついでだ。店の中よーく見てみろ」
「はぁ」
言われたまま、彼は店の中に目を凝らす。西日が反射して確認しづらいが、店員と思える姿を確認することが出来た。
だが、直ぐ違和感に気がつく。……小さい。その姿は子供だとしか思えない大きさだった。
「あれが俺様の店だ。そんであいつは俺様の孫だぜ!」
「あんなどう見ても幼女に店番なんてさせてんじゃねえよっ! でもって何でおっさんは草野球なんてしてんだよっ!?」
「いい孫娘だろー。羨ましいかこいつー」
「人として責めてんだよ! 気づけよっ!」
「へっ。娘夫婦が里帰りしてんだよ。奥にあるレジにはあいつらもいるんだろーぜ」
どうやら陽射しのせいでレジ辺りまでは見えなかっただけらしい。
彼にしてみればまったく赤の他人な子供だったが、それでも安心の溜息が漏れてしまうのだった。
「あーもう。とにかく俺は行くから。じゃあな」
「なぁにぃー?」
「なんでそこでキレんだよ……」
別れの挨拶にキレられるってどういうことよ……と考えても仕方のないことを思いつつ、彼は全身で弱いつっこみを表現する。
そもそも俺が被害者じゃんか、と現状の理不尽さを嘆きだした頃、
「なら一本打っていくか?」
という提案の声が向けられた。
声の主は恭介だった。片手でボールを弄びつつ、視線を彼に合わせている。
「意味分かんねえ」
「だってお前も好きだろ、野球」
直球だった。どこまでも飾らない言葉だった。
恭介からしてみれば、彼の姿や持ち物といった見て分かる程度の判断だったのだが。
だからこそ、謝罪というか楽しませようという気持ちからか、とにかく打っていけよという単純な考えだったのだ。
恭介を知る者からすれば、それこそ恭介らしい提案だと笑みを返すだろう。
「……はは」
ここにも一人、知らず笑みを零す者がいた。
意味合いは違った。別段恭介という人物像を知っているわけではない。突拍子もない案を笑ったのでもない。
野球が、好きだったのだ。
彼は野球というそのものが好きだったのだ。忘れていたのだ。忘れたふりをしていたのだ。
あの夏。後悔と諦観に埋もれた、青く澄み渡った陽炎の日から。
「……ああ。好きさ……大好きだっつーの」
持っていたバットを抜き出し、彼は不敵な笑みを醸し出す。伸びた前髪でも隠せない、意志の籠った流し眼と共に。
「やってやんよ。……俺のフルスイング、見せてやんよ」
――そろそろカーテン閉めようか?
――え?
――カーテン。陽が当ってテレビ見辛くない?
――あ……うん、まだいいや。
――陽射し、棚のぬいぐるみ達にまで届いているわよ?
――いいの。もう少しだけ日向にいたいかな、なんて。
――そう? なら後で体拭きましょうね。汗かいているかもしれないから。
――ありがとう。……いつもごめんね、お母さん。
「打席一発勝負な。ヒット級の当たりで坊主の勝ち。三振もしくはゴロやフライで恭介の勝ちだ」
「じゃあルール追加な」
「ああん?」
「ホームランであんたら二人に勝ち、だ」
キャッチャーとして腰を下ろした秋生に振り向きもせず、彼は左手でバットを軽く振り上げる。
左腕に触れている袖部分に違和がるのか、右手で微調整を行う。くいくいっと一、二回。
バットを重みと脱力した腕の流れで戻し、柄を右手で支え、打者としての構えを作る。
足の位置に不満はない。予備動作も必要なし。予行演習は腐るほどやってきたのだ。
……これが、彼にとっての一番勝負。
誰にも説明なんてしない。誰も注目なんてしない。それでも、特別な打席なのだ。
彼と、彼の野球にとっての。
「……へぇ」
ピッチャーである恭介が感嘆の意を吐く。それはバッターの気迫を感じたからか。堂に入った構えからか。
「なんかお前、どこかイチローみたいだなっ」
背筋を伸ばし、投球フォームへと入る。
「もったいねえもったいねえ。こんな坊主はジローぐらいでいいんだよ」
秋生の揶揄が返される。恭介の膝が上がった。
「いくぜ、サブローっ!」
全身のバネをしなやかに展開させ、指先で握ったボールが、人体として最大限の円周上を滑走する。
「勝手に適当な名前で呼びやがって……」
引き絞ると表現することが可能な、スイング直前の打者の待ちポーズ。
彼は恭介の指からボールが放たれるのを確かに目で捉えた。
バットを振り抜くと同時に、腹の底から声を張り上げる。
「俺は……日向、だーっ!」
後悔も。諦観も。濁りも。青空も。
全てをかき消すたったひとつの音が……耳を通り抜ける快音が、大きく大きく鳴り響いた。
「……ナイスバッティング。日向」
「へっ。あんがとよ」
打たれた恭介が、心の底からの称賛を贈る。
恥ずかしくもあるが、それ以上の喜びをもって、ホームランを打った彼……日向は恭介へと答えを返した。
仰ぎ見てもボールは見えない。春の空を飛び越えた打球は、はたしてどこまで届くのだろうか。
その場にいた三人は、多くを語らず、ただただ空を見上げていた。
ガシャーン……!
違った意味で耳を通り抜ける快音が、大きく、とても大きく鳴り響いた。
「……」
多くを語らずとも、ボールの終着駅は想像できた。これでもかというほどに。
交差する視線。大人げない空気。逸らされる眼差し。
「やっちまったーっ!」
頭を抱えて叫び出したのは誰が最初か。数瞬前までの爽やかな時間はどこへやら。
最初に公園で野球をしていた馬鹿二人と、後からやってきたアホ一人。
彼ら三人の、まさに子供同士のような言い争いはそれからしばらく続いたのだった。
それでも確実に言えるのは一つだけ。
きっとおそらく。打った本人が向かうのだろう。
いい歳をして、頭を下げて。
そんな春先の一日。
彼岸西風はこの日を境にして吹き止んだのだろうか。風が去った後、日増しに暖かさが増してくるのだろうか。
例えば、日向が自身の内の何かと向き合えたように。
例えば、日向を小さな夢とした少女が望んだように。
そして例えば……春の空を飛び越えたボールが、とある少女の寝室に飛び込んでしまったように。
これはそんな――少しだけ暖かい、あったかもしれない物語。