気温35度。夏真っ盛り。

 午後の一時半現在、空には雲一つなかった。

 時折肌を撫でていく風は生ぬるくしかなく、清涼感を感じることはできない。

 聞こえてくるのは蝉の鳴き声。

 数年間地中で過ごしてきた鬱憤をエネルギーに変えているのか、命自体を迸らせているのかと思えるような大合唱だった。

 今年の夏は特に暑いと。佳奈多は世間の見解からだけでなく、体感からも断言している。

 事実、佳奈多は先程まで茹っていたのだ。茹るというか、うだるというか。

 草刈り。言葉にすれば、それはたったの三文字で済ますことができる。

 しかし、行為として説明するのであれば、何百文字あったとしても言い表すことはできないだろう。

 草を刈る。それもこの炎天下でだ。直射日光は陽射し避けの帽子や頭に被せたタオルを易々と通過し、ちりちり肌を焼いてくる。

 水分を補給しようにも、摂取すればするだけ汗となって排出されていく。汗臭いだとかの思考すら奪い去る勢いで。

 持ち前の責任感から、自分ひとりで作業を行っていたのだが、それは文字通り苦行な有様であった。

 ――それに比べれば、今はなんと天国なのだろう。

 佳奈多は胸元で揺らめいている水面に、指先でひとつ、小さな飛沫を作ってみた。

 ちゃぽんという清々しい音が響く。その音だけで、体に蓄えられていた余剰な熱が抜けていくようだった。

 

「ええ。確かに生き返るようだわ」

「だろ? そもそも無茶なんだよ。こんな日に草刈りなんざするなんてな。始める前にやばいんだって気づけよ」

「なんとかなると思ったのよ」

「お前、けっこう馬鹿だろ?」

「うるさいー」

 

 口ではうるさいと言っているものの、涼を得ている快感からか、その口調は妙に間延びしている。

 そのまま佳奈多は首元まで、いや、顎が浸るぐらいまで身を沈めてから、ゆっくりと疑問を形にした。

 同じようなことになっている隣の男、棗恭介に向かって。

 

「で? どうして私はビニールプールに投げ込まれたのかしら?」

暑くて甘くて涼しくて

 一瞬気が遠くなりかけたのは事実だった。

 熱中症になりかけていたのか、単に体力が低下してしまっただけなのかは定かではないが。

 草刈りの最中、急に視界が暗転し『あ、やばいな』と佳奈多が感じたその瞬間。

 佳奈多の体は宙に浮いたのだった。

 ただしそれは倒れる際の感覚などではなく、物事はもっと意味通りで。

 佳奈多の身体は浮いた。より正しくは、抱きかかえられたのだった。

 もっと具体的に言うと、お姫様抱っこをされていた。

 もしもその場に第三者がいたのなら、誰しもが口を揃えて証言したことだろう。

 どこまでも理想的なお姫様抱っこだったと。

 倒れかかったお姫様役は二木佳奈多。すんでのタイミングで抱きあげた王子役は棗恭介。

 体勢、動き、安定感、心配げな顔、状況を理解して慌てた頬の桃色。何から何までバッチリだった。

 声にならない声を上げつつ腕の中でもがく佳奈多を半ば無視し、恭介は迷うことなく歩みを進めた。

 目的地は、佳奈多が作業していた場から死角となっていた木立の中。

 突然な出来事に対しての慌てから立ち直りそうになった佳奈多を、用意しておいた水の中へと投げ込んだのだ。

 それも、どこか優しく。

 佳奈多が落とされた水。それは恭介が用意したビニールプールの水だった。

 

 

 

 

「なんでこんな馬鹿を好きになったのかしら」

「なにか言ったかー?」

「馬鹿って言ったのよ」

 

 佳奈多は一連の出来事を思い浮かべながら、隣で水に戯れている恭介にジト目を返す。

 恭介と佳奈多。二人は紆余曲折を経て恋仲となっていた。

 ……それはあくまでも本人達の談であり、周囲としては生温かく見守ったのだが。紆余曲折というよりも成るべくして成ったと。

 当初は見ている方がやきもきする二人であったが、行為や経験を重ねるうちに、今では恋人と胸を張れる関係にまで進んでいた。

 

「馬鹿はないだろ、馬鹿は。気持ちいいだろうに」

「それはそうだけど」

「焦ったぜ。お前がやばいって知ってから急いで準備したんだが……ま、間に合ったってことで」

 

 二人が入っているビニールプールは恭介の持ち物らしい。なんでも子供の頃からの愛用品だとか。

 幼馴染み達との思い出の品なのかもしれなかった。

 詳しく聞き出そうとは思わなかった佳奈多だが、それは別に確かめなくてもいいことだ。

 例の幼馴染みは五人。子供の頃の話だとはいえ、その人数が遊ぶ為にはそれなりのサイズが必要だったはずだ。

 現に高校生である恭介と佳奈多。二人は今、悠々と手足を伸ばしている。

 きっと、それが答えなのだろう。

 

「氷まで浮いているし。どこで調達してきたのよ」

「男はミステリアスな方がモテるのさ」

「言ってなさい。勝手に」

 

 氷の入ったビニールプール。正直なところ、佳奈多は冷え切った水の感触を楽しんでいた。

 暑い最中に味わえる幸せとしては、けっこうな上位に入る贅沢だった。

 ……ただ、一点だけを除けばだが。

 

「凄く気持ちが良いのは確かなのだけれど、どうしても一つ、理解に苦しむことがあるわ」

「流石にフルーツジュースは用意してないぜ」

「頼んでない。そうじゃなくて……わざわざ口で説明しないとわからないの?」

「ほら。小さく砕けた氷」

「ひゃあっ!」

 

 ひょいっと。恭介は氷の一欠片を佳奈多の背中へ――『服の中』に入れた。

 敏感な首筋に触れた氷は、重力に逆らわず、水の抵抗にも負けることなく、不器用な動きで佳奈多の背中を刺激する。

 その刺激による脊髄反射で、佳奈多は立ち上がり、脇を締めて硬直してしまう。

 結果、背中の氷は、よりスムーズに服の中を落下し、腰回りで悪戯の猛威を振るった後、役目は終えたとばかりに溶けていった。

 

「おー。無茶苦茶色っぽいなぁ。水も滴る良い女って……ぶほっ!」

「そのまま沈んでなさい。……まったく」

 

 佳奈多は水の中に座っていた恭介の両脚を掴み、力の限りを尽くして引き上げた。

 当然のように恭介の上半身は水中に沈むこととなる。

 反撃以外の何物でもなかった。

 

「溺れさせる気かっ!」

 

 水飛沫を上げ、すかさず恭介は浮上した。

 

「もしそうなっても人工呼吸ぐらいしてあげるわよっ。光栄に思うことね」

「おおう、そいつはありがとう……って、これ感謝するとこか? 見事な自作自演じゃねえかっ」

「なに? キスって言えば良かったの?」

「そうじゃねえっ」

「はいはい。ちゅーしてあげるわよ」

「言い方の問題でもねえっ!」

「そんな瑣末なことはどうでもいいの。はっきり言ってあげるわね。どうして私は今『服を着ている』のかしら?」

 

 立ち上がっている佳奈多の節々から水滴が落ちている。着ている服、体操服の節々から。

 

「脱がせなかったからなー」

「さも当然のように言ってるんじゃないわよっ」

 

 佳奈多は作業をするための服として学校指定の体操服を着ていた。

 下はスパッツ。上は体操服とジャージを。

 一身上の都合と紫外線対策としてのジャージであり、最初は下もジャージを履いていたのだが、流石に暑くて脱いでいた。

 それでも上は着込んだまま。

 恭介は佳奈多をプールに放りこむ際、一枚たりとも脱がせることなく水中の世界へと送り届けていたのだ。

 佳奈多は一息してから靴と靴下を脱いだが、それでも全体としてみれば後の祭り。

 ジャージ、体操服、スパッツ、ブラにショーツと、何から何まで水浸しだった。

 

「言い訳なら聞くわよ。聞くだけだけれど」

「なんとも心優しき横暴さだな……」

「まさか。現に引っ叩いてすらいないのだから、這いつくばって感謝してほしいところね。この場で」

「溺れるからな。普通に」

 

 見た目的には怒り心頭な佳奈多であるが、恭介は勿論のこと、佳奈多自身も気がついてはいた。

 本気で怒っているのではないと。

 それは想像できてしまうからだった。佳奈多の中で、恭介の行為の理由についてを。

 焦ったのだろう。誰でもなく恭介が。悠長にビニールプールを用意していたものだから、佳奈多の様子を見たときに。

 予想していた以上に佳奈多は体力を消耗していた。熱中症に、少なくとも日射病になる寸前だったのだと。

 素人判断だったが、恭介にしてみれば自分の判断が全てだった。

 だからこそ佳奈多を抱えたまま、最短の時間でプールへと来たのだ。

 もしかしたら、恭介の予定ではプールに入る前に説明をするつもりだったのかもしれない。

 足湯ならぬ足プールで体の疲れを癒そうとしただけなのかもしれない。

 そんな説明すら省いてしまうほどに、焦っていたのだ。

 

「……その、なんだ。遊びたかったんだよ。お前と。プールで」

 

 しかし恭介は、そこまで心配していたとは、焦りきるほど前後不覚になっていたのだとは口にしない。

 あくまでも遊び目的で。

 

「俺も服着たまま。お前も服着たまま。たまにはいいじゃねーか、こういうのも」

 

 あくまでも悪戯半分かと思わせる表情で。

 

「わりぃわりぃ」

 

 それが恭介だった。きっと察せられてると分かっていても、そう答えてしまう彼氏だった。

 

「ほんと馬鹿ね」

 

 そして話に乗るのが佳奈多だった。察していて、それでも苦笑いで隠せてしまえる彼女だった。

 

「……すきあり」

「うおっ」

 

 氷の破片を恭介の背中に入れるおまけ付きで。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、今度はさ」

 

 じゃぶじゃぶと。恭介は体を横たえるようにして水と戯れている。

 

「こんなビニールプールじゃなくて、ちゃんとしたプールにいこうぜ。もしくは海にでも」

 

 誘いの言葉を受けた佳奈多の返事は、酷く短く。

 

「行かない」

 

 その一言だけだった。

 佳奈多の返答は恭介にも予想できていたはずのものだ。

 二木佳奈多は水着を着ない。上半身が露出してしまうから。

 それはジャージの上を脱がない理由。夏服の季節になっても、長袖を着続ける理由だった。

 当然のことながら、恋人としての恭介は、佳奈多の理由を知っている。

 にもかかわらず、どうしてそのような場所へと誘うのか。佳奈多は怒りではない、一種の寂しさを感じずにはいられなかった。

 

「こうやって水遊びはしたけどさ。俺、佳奈多と泳いでみたいなって」

「そんなこと言われても。なに、私の腕と背中を衆目の元にでも、」

「ラッシュガードってあるんだよ」

「……らっしゅ、何?」

「ああ。ラッシュガード。見たことないか? サーフィンやボディボードとかする人が着てる水着」

 

 そう言われて。佳奈多の脳裏におぼろげながら映像が浮かぶ。

 長袖、もしくは七分袖で上半身を覆っていたような。

 

「俺がテレビで見たのは女性がボディボードをしているのだったな。下はビキニのパンツで」

「それなら、……でも」

 

 実物を見たことはない佳奈多だったが、確かにラッシュガードというものならば、腕や背中を隠せそうだった。

 それでもやはり踏ん切りはつかない。

 出来るものならプールや海で開放的に遊んでみたい。夏の空の下で。恭介と一緒に。妹の葉留佳や友人達と一緒に。

 しかし、ラッシュガードを着る人というのは、サーファーやダイバーである。

 

「海で遊ぶにしても、私はサーファーじゃないわ。サーフィンもせずにそんな水着を着ないとなんて……嫌よ」

「何言ってんだよ。ならサーフィンしようぜ」

「……えっ?」

 

 ごくごく当たり前のように。恭介は言葉を続ける。

 

「ボディボードの方がボードも小さくて済むし、女の人の人口が多いっていうしな……そっちにするか」

「何を言ってるのよ? だから経験ないって……」

「誰だって最初は初心者じゃねえか。……やべえ、想像したらすっげー楽しみになってきた!」

 

 意識が変わる。

 そうだ。そうなのだ。

 これが恭介なのだ。

 長年培ってきた心苦しさを。ある種のトラウマを。肌の露出を。

 恭介はネガティブに悩むだけでなく、ポジティブに乗り越えようとしている。

 肌を出せないからラッシュガードを着込むしかないという考えではなくて。

 ボディボードを楽しむ為にラッシュガードを着ようと、思考の方向性を変えてくる。

 ――恭介の、優しさだった。

 

「……な?」

 

 少年のような笑顔が、佳奈多の目前で他意なく広がる。

 この顔を直視した時から……恋に落ちていたのかもしれないと。

 佳奈多は少女然とした笑顔を返すのだった。

 

「ほんと……馬鹿っ!」

 

 だから。全力で。

 

「っ! またかよ……っ!?」

 

 水面に横たわっていたままだった恭介を、水中へと沈める。

 体全体で圧し掛かるように。肌と肌を触れ合わせて。

 

(このタイミングで沈められる意味がわかんねーっ!)

 

 突然な攻撃を受けた恭介は、見事に水中へと没した。

 更には佳奈多の体が蓋のような役割をはたしているため、そう簡単に起き上がることもできない。

 じたばたと足掻く。けれどその動きすら佳奈多に遮られているようだった。

 まだしばらく息は持ちそうだったが、なにはともあれ状況確認をと、目を開いて前方を見る。

 すると、水中から空を見上げる格好となった恭介の視界に、佳奈多の顔が近づいてきた。

 自ら恋人を水中に押し倒しておいて。

 自ら体を乗せつけておいて。

 ……佳奈多の瞳は、とても優しく恭介を見ていた。

 

(……っ!?)

 

 水の中で身体が重なる二人。服越し、水越しであるにもかかわらず、相手の温かさが伝わってくる。

 そして、触れ合っているのは互いの唇。

 押しつけるように。逃さないように。求めるように。

 開いた唇から、僅かに気泡が昇っていく。

 

 

 

 二人の姿が消えたビニールプールは、傍から見ると誰もいない静かな空間でしかない。

 ただ、その水面には、あまりにも恋人な二人だけの世界が映っている。

 

 現在は午後二時を過ぎたところ。

 夏真っ盛りな昼下がりに起きた、少しだけ涼しく、少しばかりでなく甘い30分間。

 彼と彼女の、そんな夏のお話であった。

 

 



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