「なんでこんなことになってんだぁーっ!」

 

 恭介は叫び声と共に廊下を駆け抜けていた。

 普段の飄々とした態度などは皆無。 人目も憚らず、けたたましい足音を響かせている。

 放課後とはいえ生徒の姿もそれなりにあったが、恭介にしてみればそのような事は気に掛ける事柄でもない。

 騒ぎに驚いて教室から顔を覗かせる生徒達も、原因が恭介だと判明したとたんに生温かい視線で彼を見送る。

 ──それは既に日常茶飯事な光景として認識されている棗恭介の逃げダッシュ。

 いい加減諦めればいいのに~、今日も頑張って逃げてね~、年貢の納め時じゃないのか~?

 様々な応援……というか面白半分な野次が飛び交い、状況を不用意に加速させていく。

 

「お前らっ! 他人事だと思ってっ!」

 

 恭介の半分マジ泣きな恨み言葉も、正しく言葉どおりなのだから救われない。

 興味、賞賛、嫉み、尊敬。

 幾つもの感情をその背に受けて、棗恭介は今日も全速力。

 自由を求めて己の限界を飛び越えようとしていた。

Which do you kiss with?  <君は誰とキスをする?>

 何故、この様な事態に陥っているのか?

 そもそもこれ程までに校内を騒がせているのなら、とうの昔に風紀委員の介入が行われているのが通例である筈。

 だがこの棗ダッシュに関しては、風紀委員のメンバー達も観戦する立場に甘んじていた。

 職務怠慢と思うことなかれ。

 何故ならば既に、対棗恭介専属躾係が動き出しているのだから。

 縦横無尽に校内を駆け巡る神出鬼没な棗恭介を相手にするには、それ相応の対抗馬が必要となる。

 無闇に人海戦術を行ったとしても、彼の手のひらの上で踊らされるのがオチだ。

 ならば彼をもっとも知る人物に一任する。 それが最も有効な対策なのではないか。

 それが風紀委員が公言している最善の策……という名の建前だった。

 勿論本音は楽しんでいるだけなのだが。

 

「そこまでよっ!」

 

 恭介の進行を阻むかのように階段から姿を現したのは、周囲から彼専属の躾係とされてしまった二木佳奈多だった。

 まったく良い迷惑よ……

 その事について聞かれた時の彼女の表情は、台詞とはかけ離れた乙女の顔だったという。

 

「いい加減に観念したらどう?」

 

 腕を組み、仁王立ちで通路を塞ぐ佳奈多。

 ……だが、鬼気迫るその雰囲気も、何故か口に咥えたままのポッキーが台無しにしている。

 しかし佳奈多は自分の格好に疑問を持つこともなく、お菓子を咥えたままの姿で器用に言葉を繋げた。

 

「……ほら、もう逃げ道もないわよ」

 

 佳奈多の言葉に促されるように、恭介の背後からもう一つの足音が迫ってきた。

 謀られたっ!? と振り返った恭介が目にしたのは、佳奈多と同じくポッキーを口にした他校の女子生徒だった。

 その女子生徒は若干顔を赤らめつつも、獲物を狙う目でにじり寄ってくる。

 

「さて恭介…… あんたはどっちのポッキーを選ぶのかしらね?」

 

 背後から近づいてくる女子生徒……藤林杏が、自らの口から伸びているいちごポッキーをぴこぴこ揺らしながら問いかける。

 あほかこいつらっ!?

 心底本音で声を上げた恭介だったが、女子生徒二人の目は真剣そのものだった。

 少しずつ三人の距離が縮まる。

 

「くそ……っ。 前門のビターポッキー、後門のいちごポッキーかよ……っ」

 

 恭介は今後の人生で二度と使うことがないと思われる格言を漏らしつつ、すり足で横方向に体重を移動させていた。

 ……今の恭介に、逃げ場はない。

 

 

 

 

 

 ──話を遡ること数分前。

 物語の始まりは、グラウンドだった。

 

「じゃ、この前の罰ゲームなんだけど……」

 

 線の細い男子生徒が話し始める。

 その場にいるのはリトルバスターズの面々と他校の生徒が数人ほど。

 他校生は既に馴染みの面子だった。

 暇を見つけてはこの学校に遊びに来ていたのだが、今日はどうやら学校行事の振替休日だったらしい。

 この前のゲームの時は傑作だったわよね~、と恭介をからかうのは杏と佳奈多。

 学校も違う二人だったが、しばらく前に二人の間で起こった出来事を経て、随分と仲が良い友達になっていた。

 その出来事には、現在二人にからかわれている恭介が絡んでいたりするのだが……

 

「誰か良い案ないかな?」

 

 輪の中心になっている男子生徒、理樹の言葉に全員が頭をひねる。

 その罰ゲームというのは唯一人に対して行われる内容だった。

 前回行ったゲームにおいて、自業自得ともとれる大失敗をやらかした男……恭介に対する拒否不能な罰ゲーム。

 その打ち合わせを行っているのだが、いまいちこれといった内容が浮かんでこない。

 折角の機会なので、ほどほどに彼をからかえる内容が望ましいのだが……

 どうでもいいが、対象者である恭介は自分の罰ゲームについてここまで悩まれている事に泣きそうだった。

 

「ようしっ。 こんなときは甘いものだよ~」

 

 突如、ほんわかとした声があがる。

 

「お菓子を食べて、ゆっくりと考えましょう~」

 

 その声の主は両手にポッキーの箱を持ち、全員に笑顔を向けていた。

 そして自分の隣にいた同級生、西園美魚に箱を差し出し、勧められた彼女が箱を受け取ったその時。

 お菓子を受け取った彼女が、本当に小さい声で呟いた。

 

「ポッキーゲーム……」

 

 瞬間、全員の目が彼女が持つ箱に注がれた。

 視線は続いて恭介へと。

 

「……は? お前ら何考えて……」

 

 恭介が言葉を言い切る前に、杏と佳奈多、二人が行動を起こした。

 どんな脳内保管をしたのか?

 杏と佳奈多はそれぞれほぼ同時にお菓子の箱を掴み、一本ずつポッキーを引き抜いてターゲットロックオン。

 

「「恭介っ、私とポッキーゲームを……って逃げたっ!?」」

 

 『脱兎の如くっていうのかな……? あの時の恭介は、盗塁王も狙えるんじゃないかと思える動きだったよ』

 後に彼の幼馴染である少年が語った言葉は、その時の状況をつぶさに物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「待て待て。 落ち着こう……なっ?」

 

 いつの間にか恭介は壁際にまで追いやられていた。

 前後から彼を挟んでいた杏と佳奈多は絶妙なポジショニングを続け、今では恭介の正面で二人並びつつ迫っている。

 その際、恭介の逃げ道も塞いでいるといった神がかり的なプレスだった。

 

「ほらほら。 こっちのいちごはあ~まいぞ~」

「杏っ!? これはそんな問題じゃなくてだなっ!」

「わかってるわよ…… んっ」

「ってキスをせがむみたいな挙動するなよっ!? んってなんだよ!? んって!?」

 

 流石に恭介もいっぱいいっぱいだった。

 

「恥かしがってるから必要以上に照れるのよ」

「今度は佳奈多っ!? そう言ってるお前自身、無茶苦茶顔が真っ赤だけどなっ!?」

「……いじわる……しないでよね」

「むしろこの状況が俺に対する壮絶ないじめだろっ!?」

 

 色々と限界を迎えそうだった。

 最早彼女達のポッキーは彼の目の前数センチの距離。

 自分のやや斜め下から伸ばされている二本のポッキー。

 その根元には瑞々しい唇。

 視界一杯に映るのは、目を閉じている魅力的な女性の顔。

 吐息までもが頬を撫でる、三人だけの空間……

 

 

 

「「んっ……」」

 

 刹那、彼女達は自分の唇に柔らかい何かが触れる感触を得た。

 

 

 そして、数秒。

 

 

 薄目を開いた彼女達が見たものは、間近に迫った恭介の整った顔だった。

 だが、唇に触れているのは……彼の指。

 恭介は人差し指を杏と佳奈多、二人の唇に柔らかく押し当てて……

 

「チョコレートよりも……二人の唇のほうが柔らかくて…… とても甘そうだよ」

「「っ!!」」

 

 限界突破。

 彼が囁くその言葉は、まさしく蕩けるような甘さを含んでいて。

 唇の感触、数センチの距離にある彼の顔、声が震わす空気の揺れ、そして彼が持つ色気……

 仲良く揃って二人の思考が瞬間沸騰した。

 

「……っ! (今だっ!)」

 

 彼女達の茹った頭脳を冷却させたのは、目の前で巻き起こった一陣の風だった。

 視界がクリアになった彼女達の前には、既に恭介の姿はなく。

 背後を振り返ると、二人の間を颯爽と駆け抜けていった後姿が。

 

「あの……」

「馬鹿……」

 

 示し合わせたわけでもないのに、彼女達の言葉が綺麗に重なる。

 

「「ここまできて逃げたぁっ!?」」

 

 

 

 

 

 

 

 

「っと、なんとか窮地は脱した……かな」

 

 中庭まで逃げ延びた恭介は、さっきまで二人の口に咥えられていたポッキーをポリポリと齧りながら独り言ちる。

 あの囁きの最中、唇を塞いで邪魔だったポッキーを拝借していたらしい。

 今日の騒動は、まだまだこの程度では終わらないとわかっている。

 正直やばい。

 日に日に限度を越えてきている二人が次に何を仕出かすか不安で仕方がなかった。

 ……実のところ、現状に対して彼にも思うところがあったのだが。

 それでも、もう少しだけ今を享受させて欲しい。

 こんな日々を、あと少しだけ。

 

 遠くから自分の名を叫ぶ声がする。

 ……さっきと比べて怒り心頭っぽいのはご愛嬌ってことで。

 

「甘い……ポッキーだったな」

 

 さて、頭を切り替えよう。

 まだまだ物語は続くのだから。

 

 



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