「朋也くん、いってらっしゃいです」
「パパ、いってらっしゃい」
朋也が玄関に向かうタイミングにあわせて、二つの声が重なった。
自分にかけられた挨拶を受け止めて、一家の主、岡崎朋也は仕事に出かけて……いかない。
その場で振り返る彼は、なんとも申し訳なさそうな表情をしている。
「…ホントごめんな? 必ず埋め合わせはするから」
「朋也くんまだ言ってます。 十分理解しているんですからあまり気にしないでください」
「そうは言ってもな…」
「遅刻してしまいます」
「ん~~~……」
仕事に家庭に、朋也はその両方を精力的に成立させてきた。
例えそれが今日のように突然決まった休日出勤でも。
今までならばこういった場合は家族に仕事の説明をし、全員で過ごすはずだった大切な休日を後々取り戻す、というのが常だった。
今回も同じく家族の理解は得ているのだが……
「だけど、な…」
今日は今までに無く後ろ髪を引かれている彼の姿があった。
そんな彼の視線の先にいるのは…愛娘、汐。
「へーき。 パパ、おしごとがんばって」
「汐~~っ。 ごめん! ごめんな?」
──おたんじょうび、パパとママと、さんにんでずっといっしょにいたい──
普段は全くといって良いほど我侭を言わない女の子、岡崎汐が始めて自分の希望を言った……彼女の誕生日だった。
「ではしおちゃん。 ママと一緒にお掃除をしましょうか?」
「うん、おそうじする」
結局朋也が出かけたのは遅刻になるギリギリのタイミングになってからだった。
『汐、ごめんな?』『渚、悪い』といった後悔の言葉を最後まで口に出しつつ、仕事へ向かっていった。
最終的に朋也の背中を押したのは渚の一言。
『朋也くんが帰ってきましたら三人でお祝いをしましょう。 しおちゃんの為にご馳走を用意しておきます。 えへへ』
これは、一体誰の為の言葉だったのだろうか。
もちろん朋也の気負いを減らすのが目的なのは間違いない。
小さな願いをかなえる事が出来なかった汐。 そんな愛娘を励ます為であるのかもしれない。
それらが理由の大半を占めているのだろう。
それでも、忘れてはならない事がある。
仕事帰りの疲れた夫を出迎える、温かな手料理を作る事。
ただ娘の為に、美味しい誕生日料理を用意する事。
なによりも純粋に渚がしたいと思った事。 ……それが彼女自身の願い、幸せの一部だと言う事を。
「ぞうきんしぼれた」
「ありがとうございますっ。 頑張って綺麗にしましょうね」
「うん」
汐はしっかりとした手つきで拭き掃除を始める。
ゆっくりとだが、とても丁寧に。
そんな様子を見て、渚は何気なく問いかけた。
「……しおちゃんはこのおうち、好きですか?」
「だいすき」
「大好きなんですか?」
「うん。 ママとパパと、いっしょにいられるからだいすき」
「良かったですっ、ママもこのおうちは大好きなんですよ?」
「ママも?」
「はい。 このおうちは……」
渚の脳裏に思い出が巡る。
朋也と二人で暮らし始めた時の記憶。 二人で乗り越えてきた日々。
愛する夫と初めて結ばれた夜。 新たな命を宿す不安、喜び。
家族全員で決断をした日。 丁度数年前の今日、命を懸けて手に入れた宝物。
そして、今この時も自分の手が届く場所にある……小さなてのひら。
「ママ?」
娘の声に、追憶の波から戻される。
「どこかいたいの?」
「え?」
少しだけ、瞳が潤んでいたようだ。
噛み締める事が出来る、幸せな記憶を想って。
「ありがとう、しおちゃん。 大丈夫ですよ」
「ん……」
「…? どうかしましたか?」
まっすぐと渚の目をみつめながら、汐は囁くように答えた。
「ママがないたら、しおも、かなしい」
母親の影響か、祖母から続く遺伝か。
感受性豊かに育った幼いこの子は渚のちょっとした心情の変化を感じ取り、自らも瞳に涙を溜めている。
けれども、その場では涙を零さない。
「しおちゃんは本当に優しい子です… ママの心配をしてくれているんですね」
「うん…」
「……いらっしゃい、しおちゃん」
「ママっ」
少女は母親の胸に飛び込む。
彼女が泣ける場所は、パパと、ママの胸の中だけなのだから。
「泣かせてしまってごめんなさい。 …でも」
渚は汐を抱きしめる腕に力を込めて、
「しおちゃんが、こんなしおちゃんでいてくれて…… ママ、とっても嬉しいです」
優しく、愛娘を包み込んでいた。
「おそうじできた」
「はい、とっても綺麗になりましたね」
「うん!」
「しおちゃん、ご苦労様でした」
しばらくして一通りの掃除も終わり、洗濯やその他の家事も一段落した。
「これからお買い物に行きま、」
「しおもいっしょにいきたい」
「えへへっ、……はいっ、そうしましょう」
すっかり元気な表情を見せる汐の身支度を整え、渚と汐は手を繋ぎ部屋を出る。
近隣の住人に声をかけられる度に挨拶を返す母子の姿は、本当になんでもない幸せな光景だった。
「今夜は何が食べたいですか?」
「なんでもいいの?」
「はいっ。 今日はしおちゃんのお誕生日です。 ママ、なんだって作ります」
「うれしい。 ママ、ありがとう」
「何がいいですか?」
そんな会話をしている時だった。
「っ!?」
「しおちゃん?」
汐が渚の手を引っ張るように走り出そうとした。
もちろん大人である渚を引いたまま走る事は出来ず、『んー!んー!』と小さな身体で必死に進もうとしているだけだったが。
「?」
渚が何事かと前方に目を向けると、作業服を着た男性が二人、商店街の電灯の下で作業を行っていた。
「パパっ!」
「え、朋也くん?」
その瞬間、二人を繋いでいた手が離れ、汐は作業現場に向かって駆け出した。
「…おい、岡崎」
「? なんですか芳野さん?」
ひしっ
「え? …汐!?」
たまたま近所の商店街で仕事をしていた朋也。
同僚にかけられた声に反応する間もなく、彼の足元には作業着を掴む愛娘の姿があった。
「パパ」
汐は朋也に寄り添ったまま、大好きな父親の顔を見ている。
「しおちゃん、急に走ったりしたら危ないです!」
「渚も… 買い物か?」
「…ふう。 はい、朋也くん。 …朋也くんはここでお仕事ですか?」
どうやら偶然の出会いだったらしい。
買い物に出た二人と朋也の仕事の場所・時間が重なった、けして奇跡でもなんでもない、ちょっとした出来事。
それだけの事。
ただ、タイミングが良かっただけの事。
それでも、
「おたんじょうび、パパと、ママと、三人で会えた」
汐にとっては、素敵な誕生日プレゼント。
「汐…」
「しおちゃん…」
どんなに物分りが良くても、気にしない素振りをしていても。
小さな女の子にとって、とても大切だった特別な日。
改めてその事に気が付いた朋也と渚は軽く目配せをした後、声をそろえて言葉を紡いだ。
夜までとっておこうと思っていた言葉。
打ち合わせることもなかったが、それが自然と声に出ていた。
「「お誕生日、おめでとう」」
両親からの祝福を受け、汐は満面の笑顔で頷きかえした。
「うんっ」
更に汐は言葉を続ける。
「…それと、」
「「…?」」
朋也も渚も、汐の言葉に耳を傾けた。
「パパも、ママも、しおを大好きでいてくれて、ありがとう」
愛する者に、愛されている事。
大切な人に、大切にされている事。
それが実感できた時、それだけで全てが特別になる。
例え、商店街の一角だとしても。
予想外な誕生会だったとしても。
一番必要なモノが、そこにあるだけで。
「しお、とっても、とってもうれしい」
これからも歩き続けていける。
家族として。
この町で。