走る。走る。走る。

 白い吐息が霞がかって消えていく。

 運動は苦手ではなかった。むしろ体を動かすことに不得手を憶えることは少なかった。

 幼少のころからの練磨は自身の運動神経を鍛え上げ、多少の道理を蹴散らせる程度の働きを担ってくれている。

 少なからずの、いや、時間という多大な労力を消費しての自己研磨な日々は、望まずともこの様な結果をもたらしてくれた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 走る。走る。走る。

 息が上がろうとも、佳奈多は駆ける速度を緩めようとはしなかった。

 校内を駆け抜けるというその行為は、風紀委員という立場としてはありえない選択なのかもしれない。

 落ちるように、それすらもどかしいかのように階段を駆け下り、しん、と冷え切った一階の廊下を僅かな時間で通り抜ける。

 上履きを履き替えることもなく、渡り廊下の端から外へとその身を躍らせる。

 口煩く正してきた風紀を破るだとか。常に清潔さを保ってきた履物が土で汚れるだとか。整えていた髪が乱れてしまうだとか。

 そのどれもは今、唯一つの強い想いによって駆逐されてしまっていた。

 

「……大丈夫……大丈夫……っ」

 

 走る。走る。走る。

 やがて視界の端に男子寮が見えてきた。佳奈多は走っていた。男子寮へと、恋人である棗恭介の部屋へと向かって。

 発端は携帯電話の震えだった。

 放課後の締めくくりとなる校内巡回を終えようとしていた頃、佳奈多の携帯にメールが届いたのだ。

 送信者名は恭介。タイトルは『片付かねぇ』。内容はどこにでもあるような愚痴文章だった。

 文面を読むに、どうやらこの能天気な恋人は溜りに溜った漫画本の山を片付けをしているようだった。

 いつかこの山が崩れて大変なことになっても知らないわよ、とは、かつて佳奈多が恭介の部屋に訪れた際に発した言葉だ。

 恋人からの叱責が余程堪えたのか。恭介は床に数本積み上げられていた漫画本の山を整理しようとしていたのだ。

 愚痴と、照れと、言い訳と、そしてどこにでもあるような恋人同士のやりとりを記したメール。

 いつまでたっても終わらない本の片付け作業に飽き始めたのか、恭介は作業を中断して佳奈多へとメールを打ったのだろう。

 そのような状況を匂わせるような文章が佳奈多の携帯へと届いたのだ。

 

「恭介……恭介……っ」

 

 走る。走る。足がもつれる。意志で踏みとどまる。

 階段を駆け上がり、驚きの表情を浮かばせる男子生徒達の横をすり抜けていく。

 気にするようなメールではなかった。普段であれば、少しだけ顔を綻ばせた後に慌てて表情を正すといったところだ。

 だが、気になった。……予感、だったのだろうか。

 変換されることなく送られてきた、『──ところでかなt』というメールの最後締めくくっていた違和感。

 文章を書いている途中で送信されたかのような言葉尻。いつもの恭介からは想像できない言葉の不備。

 そして……返信をしても反応が無く、電話をかけても繋がらないという事実。

 一連の流れが佳奈多の背を押していたのだ。

 

「勝手に開けるわよ……っ」

 

 部屋の前へと辿り着いた佳奈多は、乱れた息を整えもせず、最後の隔たりを押し開ける。

 唯の心配性。後の笑い話。妹や顔馴染みの級友達からの冷やかし。

 そんな未来を夢想していたのは、甘えだったのだろうか?

 

「……っ!?」

 

 肺が縮まり、呼吸を忘れる。

 

「……きょう、すけ……?」

 

 目にした光景が、瞬間、思考を停止させた。

 崩れた本の山と埋もれ倒れている恭介の姿。そして、額から流れ出ている、一筋の赤。

 眠るように、ただただ静かに横たわっていた。

 叫び声を立てることすらももどかしそうに、佳奈多は恭介の元へと駆け寄った。肩を揺すり、根気良く名前を問い続ける。

 何度も。何度も。

 何が起きたのかは明白だった。危惧していた出来事が起きてしまったのだ。

 それも最悪な形で。

 やがて、幾度目かの声掛けに、僅かながら反応が返ってきた。

 初めは小さな呻き声で。徐々に顔の筋肉が微動を開始する。

 佳奈多は呼び続けた。浮上しかけた意識を呼び戻すかのように。

 その甲斐もあってか、元より軽傷でしかなかったのか。徐々に、本当にゆっくりと、恭介の瞼が開き始めた。

 

「恭介っ、聞こえる? 恭介っ!」

「う……んん……」

 

 ぼんやりとした瞳が佳奈多の顔を映し出した。

 同時に佳奈多は恭介の頭を抱え込み、両腕で、いや、全身で抱きしめた。

 零れたのは安堵の吐息か乙女の嗚咽か。

 開け放たれた扉の外には、何事かと野次馬が集まり始めていた。

 おぼろげながら内部の状況を理解したのか、人を呼ぶ声やどこかしらに電話をかける仕草が伝わってくる。

 

「あれ……、俺……?」

 

 そうして、ようやく恭介の口から具体的な声が発せられた。

 佳奈多に抱きしめられているという状況が認識できていないのか、頻りに動揺しているようであった。

 なんにせよ佳奈多は体から力が抜けていくことを感じていた。

 頭を打ったようなので、病院で検査をしなければ判断は出来ないことに違いはないのだが、それでも意識ははっきりとしている。

 メールという偶然や、自身の胸騒ぎがあったからこそだが、それでも早期の発見という初動は行えたのだ。

 次第に佳奈多の心には安堵という余裕からか、呆れと怒りの念が鎌首を擡げ始めてきた。

 

「まったく……心配させて……っ。直ぐに病院に行くわよ!」

「え……? っ痛……」

「ほら! 頭打ったみたいだから動かないで大人しくしていなさい! まったく、私が気づいたから良かったものの……」

 

 しかめっ面に普段の佳奈多らしさが戻ってきた。

 恋人を心配し、お馬鹿な行為に呆れ、それでいて的確な判断を下す彼女は、既に次の行動をどうするか考え始めていた。

 救急車を呼ぶべきか、教員達に知らせるべきか、はたまた理樹達に連絡をするべきか。

 ともあれ行動は迅速であればあるほど利であることに違いはないと、部屋の外に集った生徒達に指示を飛ばす。

 

「……大丈夫だ。迷惑をかけたな……」

 

 と、腕の中から弱々しい声が向けられた。

 

「……立てるから気にするなって」

 

 恭介は佳奈多の介抱から逃れようと、もぞもぞ体を動かし始めた。

 

「心底馬鹿なの? いいから大人しくしていなさい」

「はは……酷ぇ言い草だ」

「ホントに貴方はいつも……っ」

「……おぉ怖い怖い。二木はおっかねぇなぁ……」

「そんな空元気はいいから安静にして、……え?」

 

 再び、違和感。

 

「そもそも二木……。なんでお前が俺の部屋にいるんだ……?」

 

 それは認識のずれ。

 

「え? どうしたんだよ二木、お前、顔色悪いぞ?」

 

 介抱している者の顔色は、介抱されている者が心配するほどに青褪めていた。

 感じ取ったのは些細な表情の違い。

 恭介の顔に浮かんでいるのは、かつての距離感を匂わせていて。

 受け取ったのは微妙な拒絶感。

 昨夜は暖かく包んでくれていた恋人の温もりは、今、自ら抜け出そうと足掻いていて。

 囁かれたのは自分への呼び名。

 佳奈多、ではなく……二木、と。

 

 

 

 ライトの落ちた携帯電話がひとつ。床の上に転がっていた。

─アムネジア─

 外傷性の部分的逆行性健忘。それが医師による診断結果だった。

 具体的には、頭部への衝撃を起因とした一過性な陳述記憶の再生不能だ。

 認識障害の範囲として該当するのは、時間軸として約数週間分らしい。

 

「つまり、恭介はここ数か月の間に起こった、もしくは起こした誰かとのやりとりを忘れちゃってるってこと?」

 

 翌日。けろっとした顔で病室のベッドに横たわる恭介に、理樹は自分が理解しやすい形での解釈で問い返した。

 そう広くはない個室だ。当の本人は一日でも早く退院したそうにしているが、検査に日数がかかるのは仕方がなかった。

 初診は終えているのだが、それでも機械的な設備を利用しての診断が山のように控えているらしい。

 

「でもな理樹、大切なことはなにひとつ忘れてないぜ。俺達に関わることは、なにひとつ、な」

 

 にかっと笑う恭介。直接的な傷があるので、それこそ頭部に包帯を捲いてはいるのだが、至って普段通りな笑顔を浮かべている。

 彼にしてみればこのような出来事すらもイベント的な解釈でしかないのか。

 悲壮なイメージがどこにもない晴れた表情でもあった。

 そこでようやく理樹も安心したのか、八の字に曲げた眉をいくらか和らげる。

 つい先ほどまでは、いつ涙が零れても不思議ではない瞳をしていたのだ。

 

「そっか。ってさ、忘れてるなら記憶があるのかないのかも分からないんじゃないの?」

「まぁ、そうとも言うな」

「……忘れてることすら思い出せないんだもんね」

「変な日本語だな」

「あのね? 恭介自身のことなんだよ?」

 

 診断結果はあくまでも問診による確認だけである。

 簡単なスキャニング等の初診に問題点はなかったようだが、どこまで安心して良いものなのか。

 恭介本人よりも、理樹の方が困惑顔を浮かべている。

 

「何か、思い出せない……っていうか、突然抜け落ちてるエピソードとかって分かる?」

「ん、そうだな」

 

 ベッドの上で上半身を起こす。どうやら身体的な不具合はほとんどないようだ。

 

「理樹と初めて出会った日……」

「えっ、もしかしてその日のこと忘れちゃったのっ!?」

 

 けして軽くはない衝撃が理樹を襲った。それは、大切な日。全ての始まりだと言っても差し支えない、特別な思い出。

 

「その日の夕食……俺、何食べたっけか?」

「知らないよそんなことっ!」

「記憶がぁ! 俺の大切なエピソード記憶がぁっ!」

「何もなくたってそんなこと憶えていないよ普通の人は!」

 

 ともあれ。ところどころ記憶が零れていることは事実である。それは恭介自身が理解できているほどに。

 ノイズが走るのだ。頭の中で。

 何が、とは分からない。誰が、とも分からない。

 ただぼやけているのだ。

 特定の、何か、が。

 

「ま、気にすんなって。なんか医者先生が言ってたけどな、こーゆーのって割かし短い時間で思い出せたりするみたいだし」

「そうなの?」

「一生思い出せなかったりするらしいけどな」

「……そうなんだ」

 

 いつか俺が不思議そうな顔をしていたら、その都度教えてくれればいいさ。

 恭介はそう締めくくった。

 伸ばした手が理樹の頭を乱暴に撫でる。心配しなくてもいいさ、と。お前は不安がることなんてないさ、と。

 どこまでも恭介だった。どこまでも、理樹の知っている通りな棗恭介の行動だった。

 

「それじゃあ僕は一旦学校に戻るね」

「ああ。わざわざサンキュな、理樹」

「気にしないで。僕が来たかったんだから。夕方には皆も顔を出すって言ってたよ」

「そんな大げさな」

「二木さんも安心すると思うよ。元気だったって言っておくね」

「……? あ、ああ」

 

 つい今さっき話していた内容が目の前に生まれた。

 即ち、不思議そうな顔をした恭介が目の前にいたのだ。

 

「恭介?」

「ん、いや、二木が安心って……ああ、そっか。風紀委員だもんなあいつ」

「……恭介、何を言って、」

「なんか昨日も色々と手助けしてくれたみたいだしなぁ。……でも俺達、そんなに二木と仲良かったっけか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 もしかしたらだけど……恭介、二木さんと恋人になったってこと、忘れているかもしれない。

 伝えるべきか、伝えないべきか。葛藤に苛まれているような辛さを忍ばせながら、理樹は佳奈多の前で呟いた。

 病院から戻った理樹は、すぐさま佳奈多の元に訪れた。そして自分が感じた、予想した事実を伝えたのだ。

 人通りの少ない廊下の片隅で、言い様のない空気が蟠っている。

 対して、佳奈多からの返事はとてもシンプルで。

 そう……、やっぱりね。

 予想していたのだろう、当日の僅かなやりとりだけで。覚悟していたのだろう、そうなのかもしれないのだと。

 逆に理樹の方が驚きを隠せなかった。

 そうなのだとしたら、どうしてもっと傍にいないのかと。どうして見舞いに行かないのかと。

 だから声に出してしまった。恭介の記憶を取り戻そうよと。

 しかし佳奈多は無言だ。

 皆で協力して思いださせてあげようよと。

 けれど佳奈多は無言だった。

 早速皆に伝えてくるねと。

 最後まで佳奈多は無言だった。

 理樹がその場から離れると、佳奈多は一人取り残される形となった。

 俯いたままだった佳奈多の体が、少しずつ横に倒れていく。受け止めたのは窓際の壁だった。

 寄りかかり、両腕は自身を抱きしめて。その少女は……静かに震えていた。

 知識としては持っていた。一過性の健忘にはそれなりの治癒例があるのだと。

 前向性であっても逆向性であっても、なんらかの刺激や時間経過で回復されることがあるのだと。

 健忘を起こす原因によっては、治療的薬物投与であったりカウンセリングを含む精神科医治療なども確立されていると。

 24時間以内に回復する例が多数だと言われている新銘記不能障害、一過性全健忘などの通説も聞いたことがある。

 だから理樹の希望も捨てたものではないと理解している。

 してはいるのだが、

 

「もし……本当に忘れてしまっていたら……? 二度と、思い出せないのだとしたら……」

 

 怖いのだ。希望が見えている今よりも深い絶望。それが大きくなてしまうことがなによりも怖かったのだ。

 だったら自然に任せておく方が良いのではと。自ら行動して終わりに向かってしまうのよりは良いのではと。

 後ろ向きに、成り行きに任せてしまいたいと考えてしまうのだった。

 そうして彼女は普段通りの日常を続けることを選んだ。見舞には行かず、ただ、待つことを。

 佳奈多は携帯電話を取り出して、去って行った理樹にメールを打つ。

 自分のことを、あいつには伝えないで欲しい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実は俺、テストで補習受けなかったんだぜ?」

「嘘っ、マジかよっ! すげえじゃんか真人!」

「わふーっ! 恭介さんは野球の練習の後に、私のお弁当を褒めてくださいましたっ」

「くっそ、羨ましいな忘れてる間の俺! もう一度能美の料理を食べてみたいぜっ」

「……先月、恭介さんは直枝さんに対して幸せにすると宣言しておりました」

「してないよねっ!? 僕にすらそんな記憶は存在してないんだけどっ!」

「……理樹、俺に任せておけ。きっと幸せにするぜ」

 

 恭介の忘れているであろう出来事。あることないこと。

 病室ではまるで遊び感覚のような確認が行われていた。

 やはり欠落した記憶が多少はあるようだった。部分的に思い出せている箇所もあるにはるのだが。

 

「……恭介さん、かなちゃんのこと……」

「小毬? 二木がどうかしたのか?」

「っ……う、ううん。なんでもないなんでもない」

 

 ただ、佳奈多のことは、相変わらず二木と呼んでいた。

 

「少年、恭介氏は本当に佳奈多君のことを、」

「うん……きっと……」

「そうだとしても、佳奈多君自身は伝えることを望んではいないのであろう?」

「そうだけど……なんだか凄くもどかしいよ」

「ふむ……ん? そういえば葉留佳君の姿が見えないのだが」

 

 来ヶ谷が疑問に思ったその時、控えめなノックの音が病室に響いた。

 顔を覗かせたのは葉留佳と……佳奈多であった。

 

「やはは。連れてきちゃった」

 

 グッジョブ。数人の思考が葉留佳を褒め称えた瞬間だった。

 記憶へと少しずつ刺激を与えていけば、きっと良い方向に進むはずだと。誰しもが思っていた。

 

「な、棗恭介……元気、してるの?」

「あ、ああ。まぁ、な」

 

 たどたどしく会話を始める二人。はたして葉留佳はどのように佳奈多を説得したのであろうか。

 自信を持たない佳奈多を叱ったのだろうか。持ち前の腕白具合で強引に引きずって来たのであろうか。

 確実に言えるのは、この場に佳奈多が来たことが、完全に葉留佳の功績であるということだけだ。

 それは理樹への視線、理樹くん褒めて褒めてー、とでも言わんばかりなキラキラ視線が物語っている。

 

「……これ」

「俺の携帯?」

「身の回りの物。貴方の部屋にあった電話や財布。ないと困ると思って」

 

 着の身着のままで病院へ送られてきた恭介は、佳奈多の善意に感謝を返した。

 そして、佳奈多にとっての本題が始まった。

 

「お、憶えてるかしら?」

「……悪い。何を、から言ってくれないか?」

「……」

 

 小さな勇気。

 

「貴方と私の……」

 

 憶えていてほしい。忘れていてほしくない。

 

「……関係、……憶えてる……?」

 

 間。

 長く、短い無言の間。

 ややあって、病室内を震わせた音は……。

 

 

「知り合い……だろ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。

 佳奈多は泣いていた。

 葉留佳の部屋で。妹の胸に顔を埋めて。

 慰めの言葉は口にできなかった。葉留佳の口から出てくるのは謝罪の言葉だけだった。

 ごめんねと。ごめんねと。

 記憶が無ければ本人ではないのだろうか。本人はいたとしても、かつての本人ではないのだろうか。

 自分はどうなのだろう。なかったことになったとしても、変わらず傍にいられるのだろうか。いても良いのだろうか。

 取り留めもない想いが溢れては消えていく。

 怖かった。ただただ怖かったのだ。

 いつかは思い出してくれるのだろうか。いつまでも思い出さないのだろうか。

 だとしたら自分はどうすればいいのか。

 寄り添えばいいのか。自分が持っている記憶を残さず伝えればいいのか。

 離れた方がいいのか。彼の道を塞いでしまうような行為をしてはいけないのか。

 

「……でも……好きなの……っ」

 

 強くて、弱くて。

 どうしていのか分からない、ただの少女がそこにはいた。

 

 震えているのは小さな両肩。

 それともうひとつ。

 もっと、もっと小さな繋がりの形。

 その小さな物体も震えていた。

 そのことに最初に気がついたのは葉留佳だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皆が帰った後。残された恭介は病室を抜け出していた。

 特に部屋から出ることを禁止されていたわけではないが、それでも夜だ。大人しくしている方が自然だった。

 だが、彼は病院の中庭に出ていた。

 冬。風も冷たく、彼以外誰もいない場所。

 だというのに、病室に戻ろうとは思わなかった。思う以上に、心がざわめいていた。

 瞼の裏に残るのは、病室でみた表情。仲間達が見舞いに来てくれていた、あのときの顔。

 二木佳奈多の……泣き顔。

 嗚咽を漏らすわけでもなく、叫ぶわけでもなく、ただ、淡々と。

 淡々と、瞳から涙が零れていった。

 

「俺……何を忘れてるんだ……?」

 

 答える者は、どこにもいない。

 

「理樹……鈴……みんな……。俺、何を……」

 

 仲間達もいない。皆、辛そうな顔をして帰ってしまった。

 

「……くっそ。二木……二木だよな……ああ、それは知ってるんだ」

 

 知っている。知っているのに。

 その名前にはずれを感じる。

 自分は、もっと、もっと他の呼び方で……。

 

「理樹……みんな……教えてくれよ、頼むから……っ」

 

 渡されていた携帯電話を開く。

 メールだ。まずは理樹に聞いてみて……。

 

「『からかわないで聞いてくれよ? 俺、二木と』……え……?」

 

 思いついたままの文面を打ち込もうとしたその時だった。

 最初の一文字を入力した、いや、しようとした瞬間、その単語が目に入った。

 

 変換候補選択──『佳奈多』『か』『可愛い』『──

 

「佳奈多……?」

 

 自動でかな入力の変換候補を表示してくる画面下部分に……佳奈多がいた。

 

「え、佳奈多? 俺、そんなに何度も……え?」

 

 自動変換は入力回数が多ければ多いほど上位と判断される。

 かな一文字である『か』よりも、他の何よりも優先されたその事実は……忘れえぬ積み重ねの結果であった。

 

「佳奈多……佳奈多……佳奈多……っ」

 

 受信フォルダを。送信済みフォルダを次々と開けていく。

 そこにもいた。何度でもいた。毎日いた。

 場面がフラッシュバックする。蘇っては消えていく。

 最後に、一番古い受信には、保護マークがついていた。

 

『──これからよろしく。まったくもう、一度しか文面にしないから、こんなの。……大好きよ、恭介』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おねえちゃん……おねえちゃん……っ」

 

 葉留佳の声が涙まみれだった佳奈多の意識を揺り動かす。

 手には携帯が握られていた。マナーモードで震えている佳奈多の携帯だった。

 ディスプレイを向け、佳奈多に差し向けてくる。

 

「はやくっ! これって……っ!」

 

 着信中。棗恭介。

 

「恭介っ!?」

 

 指が震える。けれども確かに着信を受け取る。

 

『俺、お前に……から……すぐ……』

「恭介っ? 良く聞こえない、恭介!」

『もうすぐ……から……逢いに……待って……』

「何!? 恭介っ?」

『校門……着い……どこにいる……』

「校門って……抜け出してきたのっ? 馬鹿!」

『お前に……佳奈多……』

 

 佳奈多、と。

 聞こえた。確かに聞こえた。

 大好きな人の声が。

 

「おねえちゃんっ!?」

 

 居ても立ってもいられなかった。

 佳奈多は部屋を飛び出し、寮の階段を駆け降りる。

 聞こえたのは自分の名前。校門。逢いに。

 それだけで十分だった。あの馬鹿の行動を予想するには、あまりにも十分すぎる単語だった。

 携帯を耳に当てたまま、佳奈多は走る。

 

「恭介っ! 今どこにいるのっ!?」

 

 走る。走る。走る。

 白い吐息が霞がかって消えていく。

 運動は苦手ではなかった。むしろ体を動かすことに不得手を憶えることは少なかった。

 幼少のころからの練磨は自身の運動神経を鍛え上げ、多少の道理を蹴散らせる程度の働きを担ってくれている。

 少なからずの、いや、時間という多大な労力を消費しての自己研磨な日々は、望まずともこの様な結果をもたらしてくれた。

 

『今……中庭が見えた……っ。俺、お前に……』

 

 走る。走る。走る。

 息が上がろうとも、佳奈多は駆ける速度を緩めようとはしなかった。

 校内を駆け抜けるというその行為は、風紀委員という立場としてはありえない選択なのかもしれない。

 しかし、今、唯一つの強い想いによって、そんなどうでもいいことは全て駆逐してしまう。

 

「お願い、もう一度……もう一度呼んでみて……っ」

 

 走る。走る。走る。

 やがて視界の端に中庭が見えてきた。佳奈多は走っていた。彼の元へと、恋人である棗恭介へと向かって。

 いた。

 彼が。大好きな彼が……自分の名前を叫んで……っ。

 

「佳奈多っ!」

『佳奈多っ!』

 

 左の耳から肉声が。右の耳から電話越しに。

 二木ではなく、佳奈多と。求めていた呼び名で、恭介が呼んでくれた。

 

 

 飛び込む影と、受け止める影。

 二つの影が宵闇の中でひとつになる。

 それ以上聞かなくても、それ以上説明しなくても。

 二人は互いに理解していた。言葉を必要とはしていなかった。

 

 彼が思い出したのは、恋人の全て。

 名前も、呼び名も、出会いも、想いも、感触も。

 

 

 

 人騒がせな、どこまでも人騒がせな、一日ちょっとの物語。

 翌日には、まるで何もなかったかのように……きっといつも通りな物語に帰ることだろう。

 

 

 二人の足元には、ライトがついたままな携帯電話がふたつ。

 寄り添い合うように転がっていた。

 

 

 



ページのトップへ戻る