──恋しくは  したにを思へ  紫の  ねずりの衣  色にいづなゆめ──

 

古今和歌集 詠み人知らず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──八雲紫の暇潰し──

 

 

 

 

 

 

 

 

「古今和歌集……ですか?」

 

 そう、少女が問うた。

 ここは少女の自室だった。十畳ほどある部屋の三方は、その全てが書物の収められている棚で埋め尽くされている。

 残る一方は、温かみを感じさせる障子戸だ。

 降り注ぐ陽光を柔らかく遮断するというのが障子の醍醐味でもあるのだが、今はその先人の知恵ともいえる恩恵を受け取れてはいない。

 既に日は落ち、夜の帳がこの地を覆い尽くしているからだ。

 室内の光源は揺れ立つ蝋燭の明かりのみ。

 部屋の外側から障子を望めば部屋にいる者の姿が影絵の如く映り込んでいることだろう。

 その部屋の主たる少女と、障子も開けずに訪れてきたもう一人の女性の姿形を。

 

「流石ね阿弥。教養も綿々と受け継がれているようでなによりですわ、阿礼乙女さん」

 

 幻想の郷たるこの地を愛してやまない女性、八雲紫。妖怪の賢者と目される彼女はそう答えた。

 そこに浮かぶのは慈愛の表情。見え隠れするのは悪戯顔。阿弥の双眼に映る紫の顔は、賢者でもあり愚者でもあった。

 だからこそ阿弥は断言する。

 

「胡散臭いですね」

「まぁ、失敬な」

 

 続く声は少女らの笑い声。零れる含み笑いは上品に、それでいて気兼ねなく稗田の屋敷の一部屋を包み込む。

 この距離感が稗田阿弥と八雲紫の全てであった。

 時折、紫は阿弥の部屋へと隙間を繋げてくる。それも深夜に。阿弥が何度となく文句を言おうとも我関せずに。

 その夜も同じであった。

 一日を終えた阿弥が寝床へと着こうとしたその時、ネグリジェ姿の紫がにょろりと隙間から現われたのだ。

 言葉の通り、艶めかしく足を伸ばして。そして一言、貴女の寝間着姿よりもそそるでしょう? と。

 対する阿弥は睡眠を邪魔してくれた珍客を完全に無視……するわけにもいかず、無言の行為で反抗した。

 畳に敷かれた布団の上に崩し正坐でしなだれて、全身の力をそっと抜く。

 撫で肩である彼女から自然と肌襦袢が着崩れて、年相応の艶が眼前にいる紫を責め立てた。

 妖艶対清純。判定は両者同時の吹き出しで。

 兎にも角にも笑顔が絶えない二人であった。

 

『ところで阿弥。こんな短歌はご存じかしら』

 

 ひとしきりの笑みの後、紫がとある短歌を詠った。

 ……それは、恋の詩であった。

 

「歌の意味は想像できて、阿弥?」

「意味、ですか?」

「そう。古に詠われた、どこぞの誰かが焦がれた詩。この三十一文字が織りなす意味を」

「ん。そう、ですね……」

 

 みそひともじ。

 五、七、五、七、七。計三十一文字の姿をとった、儚き詠み詩。

 儚き故に。短き故に。短歌の解釈は千差万別でもある。

 勿論作者の意図こそが真実なのであろう。其の者が込めた想いなのだから。

 だが、其の者すらも不確かであったのなら。込められた想いすらも時の彼方であったとしたのなら。

 言の葉は霞み、連なる音としてだけ伝わってくるものなのだろう。

 ならば。故に。

 彼の詩は、詠み手によって、聴き手によって……悉く内意を変えていく。

 

「……恋は密かに。紫草の根で摺られた衣のように、気持ちを表に出すべきではありません」

 

 これが、阿弥の導き出した意であった。

 

「恋心とは秘するもの。色鮮やかな衣とは違い、表出す想いでは無い……とでも言うところでしょうかね」

「あらあら。今代の阿礼乙女さんは随分と乙女なことで」

「む。そう言う貴女はどのような解釈を?」

「貴女とおんなじよ。阿弥」

「え?」

「恋は秘してこそ。当然じゃないの」

 

 何を悩むことがあるのかと。

 自信満々な紫の顔に阿弥は少しばかり目を奪われるも、やれやれと肩を竦めた。

 そう。紫は誰よりも少女然とした妖怪なのであった。

 恋に恋する少女であり、恋に夢見る少女であり。そして、苦味すら知った長寿の乙女。

 それは乙女なのか、女なのか。

 境界を操るという賢者。

 何よりも曖昧なのは、彼女自身なのかもしれなかった。

 

「さて。それでは最後に落ちをばひとつ」

 

 紫の気配が僅かながら引き締まる。これこそが今夜の本題なのであろう。

 

「恋は秘して愛でるもの。私と貴女の共通見解ね」

「ええ、そのようですね」

「でも」

「でも?」

「……貴女はそれで良いの? 阿弥」

 

 深い、深いその瞳が、阿弥を覗きこんでいた。

 想いが伝わる。意図が解かれる。

 紫が問うたその言葉は、八代目阿礼の子、稗田阿弥へと正しく届けられた。

 

「……本当にお節介な妖怪もいたものですね」

「愛、故にですわ」

「興味、ではなくて?」

「そこに違いなどあって?」

 

 互いの心に浮かんでいたのは眼鏡の似合う朴念仁。

 阿弥の知り合いであり、以前に紫とも出会いを果たした、とある一人の半人半妖。

 誰から見ても阿弥とお似合いであり、誰しもが恋仲であろうと見立てている男。

 ……森近霖之助。

 

「届かぬ恋は自己満足。既に幻想郷縁起の編纂も終わりが見えているのでしょう? 少しは貴女から動きなさいな」

 

 阿弥と霖之助は惹かれあっていた。紫の目から見ても確かであった。

 しかし男と女の関係ではない。あくまでも知人、しいて俗に言うなれば、友人以上恋人未満とでも例えようか。

 悪からず想い合っているというのに、二人は一線を越えようとはしないのだ。

 されども腰を及んでいるのにも理由がある。曲げられない、厳然とした訳があったのだ。

 阿弥は阿礼乙女。彼女は遠くない未来に転生を行う。それは彼女が彼女である証でもあった。

 霖之助は半人半妖。彼は生き続ける、遥か未来にまで。それは彼が彼たりえる現実でもあった。

 別れが待つのだ。人が得る幸としては、あまりにも短い時間の先に。

 酷。事情を知り得た上で迫る紫の言動は、正に酷であった。

 故に阿弥は言葉で誤魔化すのだ。超える事など叶わぬ壁を、縋るべき言い訳として。

 

「しかしですね、妖怪の賢者。貴女もご存じのとおり、私の道には転生の儀が待って、」

「もう一度問うわ。貴女はそれで良いの?」

 

 切って捨てた。紫は阿弥の瘡蓋を引き剥がし、深淵に埋もれている真の心を誘い出す。

 

「ですが、そのようなこと……。御阿礼たる私に許されるのでしょうか」

「誰の許しが必要なのか言って御覧なさい」

「……」

「許しを乞うのならば私が許しましょう。逃げ道が欲しいのならば私が塞いであげましょう。阿弥、貴女が求めるものは何?」

「私は……」

 

 余計な御世話。有難迷惑。悪女の深情け。

 紫の行為は正しくその通りなのであろう。わかっているのだ。誰よりも阿弥本人が理解しているのだ。

 だが、それでも。

 

「私は、あの方の御側にありたいです」

 

 嬉しかった。ただただ嬉しかったのだ。

 友人として誡めてくれたことが。回りくどくとも実直な想いが。

 そしてなによりも、それでも良いのだと言ってくれたことが。

 

「……大正解」

 

 阿弥を見守る紫の瞳には、優しさと慈しみと、惜しみない愛がたゆたっていた。

 後日。阿弥と霖之助が寄り添う姿を見た者は、皆が皆、今までよりも一層近づいた関係であるのだと感じ取る事となる。

 

 短くも愁うことなき恋の日々は、紫の桜舞うその時まで続いていく。

 御阿礼の子と半人半妖と、二人を見守る妖怪の賢者。

 彼女ら三人の嫋やかな時間は、色褪せない記憶となるのだった。

 

 

 

 

 仄かな歯車の不和にも気づかずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「暗号かい……それは?」

 

 そう、青年が問うた。

 

「ふむ……自称賢者と名高い八雲紫直々の問答か。面白い。受けて立とうじゃないか」

「……もし?」

 

 何を言ってるのだろうかこの眼鏡は。紫は目の前にいる男の思考が理解出来なかった。

 

 春間近となった幻想郷。雪も溶け、魔法の森にも草木の伊吹が顔を覗かせ始めている。

 この冬に起こった地霊達による騒動やその名残すらも落ち着きを見せ始め、人も妖も、巡りくる春を謳歌していた。

 あまりにも春告精の訪れが似合わない場所である、と真しやかに噂されている香霖堂にも春は来る。

 残念な事に春とは季節的な意味でしかなく、千客万来としての春は流石の春告精であったとしても手の施しようがないのだが。

 

 

 春と言えば、霖之助曰く、近頃頭に春の訪れがあった風祝──当然本人にそのまま伝えた霖之助は、猛烈な不況を買ったわけだが──

 東風谷早苗が実に興味深い事を言っていた。

 常連となっている彼女が雑談兼商品の冷やかしを目的として香霖堂へと訪れた時のことだ。

 人里で所用を終えてきた彼女は、人々の間で話題に上っていた『不可思議な船』という噂話を語った。

 それは空飛ぶ船の話。春の空、雲の隙間を縫う様に、船らしき影が空を飛んでいるというのだ。

 

『本当ですかねこの話。森近さんはどう思われますか?』

 

 飛行機でしょうか、と呟く早苗。対して霖之助は溜息と共に答えた。

 

『気になるのだったら探せば良いだろうに。君は風を纏えるのだろう? いつものようにふわふわ右往左往してくるといい』

『右往左往なんてしていません。その言葉は森近さんにこそお似合いです』

『僕が右往左往? 不愉快だねその文句は。僕ほど地に足をつけた人物はいないというのに』

『知りませんそんな自画自賛は。結局ホットカーペットも仕入れてくれませんでしたし、いつまでたっても霊夢さんには敵わないですし』

『……ここは愚痴の吐き場ではないよ。君の神様達にでも縋るといいさ』

 

 その手がありました! 空飛ぶ船については神奈子様達に御伺いしましょう、と。

 弾けんばかりの笑顔を湛えた早苗は、その日も商品を買う事なく香霖堂を去っていった。

 本当に何をしに来たのであろうか。

 閉められた扉に視線を送りつつ、霖之助は店内を賑わせた青い風へと想いを巡らす。

 商品購入の際にはしっかりと代金を支払ってくれる分、とある少女よりも幾らかは常識的であると思えるのだが……、

 

『幻想郷の巫女は、僕の店を井戸端のように捉える習慣でもあるのだろうか』

 

 去っていった青白と、それとは別の紅白を思い出して、霖之助は小さく嘆息を漏らすのだった。

 やがて件の飛行物体に関する異変の顛末を聞くことになるのだが、それはまた別の話。

 香霖堂の売り上げは本日も零也。春はどこまでも遠かった。

 

 

 

 閑話休題。

 周囲は春なのに春ではない店、香霖堂。

 その店内には今、霖之助と紫の姿があった。

 自称通い妻である阿求の姿はない。某かの用があるらしく、ここ数日香霖堂には訪れていないのだ。

 珍しく店の扉から入ってきた紫は、日傘を折りたたみ、真っ直ぐ霖之助の前へと歩み寄る。

 そして、紫は詠った。

 思い起こす事約百年の昔。八代目阿礼の子、稗田阿弥へと綴り届けた恋の歌を。

 紫の花が散る無縁塚で、愛の欠片を取り零した霖之助を抱き締めたあの時も。

 互いに親しき者を失い、傷を舐め合った閨の中でも。

 刻が経ち、傷が癒え始めた時も。

 けれども忘れないように、その傷を敢えてそっと抉っていた数十年の間も。

 阿求が生まれ、香霖堂へと足繁く通うようになってからも。

 再び舞い散る紫桜の下で、霖之助と阿求が互いを認め合っていた光景を、隙間から覗いていた時も。

 いつでも、いつまでも紫の心に響いていた……思い出の短歌を。

 

 その詩は紫にとって特別なものであった。阿弥との繋がりだから、というだけではない。

 紫自身、理由は定かではなかったのだが……惹かれていたのだ。その詩に。

 でなければこうまで紫の心に残り続けることはないのだろう。

 だが、『惹かれる』とは『魅かれる』でもあり『曳かれる』でもある。

 紫は何に魅かれているのだろうか。何に曳かれているのだろうか。

 あやふやな想いを抱いたままであった紫は、それこそ暇潰しとして霖之助に訪ねてみようと思ったのだった。

 何かしら面白い解答を得られるのではないかと。

 

「恋しくは、したにを思へ、紫の、ねずりの衣、色にいづなゆめ。……か。この暗号文を紐解くと……そうだな」

「……馬鹿?」

 

 しかし当の霖之助は、あろうことか恋の短歌を暗号文だなどと言い放ち、解読という思考の海へと没している。

 これには紫も開いた口が塞がらない。

 ここまでくると朴念仁という単語で表わすことすら忌々しい。馬鹿で十分である。

 

「まず『恋しく』というのは、こいし苦。つまり、話に聞く地霊殿主の妹君のことを指しているのだろう。なんでも妹君は覚り妖怪としての器官である第三の瞳を封じたのと言うではないか。他者の心を知る、いや、知ってしまえる瞳を閉じたということは、妹君にとって負担でしかなかったのだろう。次の句である『したにを思へ』という言葉がそれを事実たらしめている」

「……それで?」

 

 よくもまあつらつらと嘘八百な説明が出来るものだと、おかしな意味で感心する。

 紫は呆れ十分で霖之助の言葉を促した。

 

「続いてだ。『紫の』『ねずりの衣』というのは紫色の衣服とも受け取れるが、僕は騙されない。貴女が持ち込んできた暗号だ。『紫の』という句は色を示しているのではない。八雲紫、貴女自身の事だろう」

 

 自己満足な解説は、更におかしな方向に進んでいった。

 

「『ねずりの衣』とは寝擦りの衣、そう、寝間着だ。『色にいづなゆめ』が多少不可解な顛末ではあるが、ゆめ、とは否定を意味する。ならば『色にいづな』ではない、という鍵を暗に示している。色とは女性としての色。いづなとは転じて飯綱を意図する言葉だ。これは小動物として考えれば良いだろう。女性の色に非ず、小動物に非ず、と。……さて、これで全ての欠片が並んだわけだが」

「……」

 

 もはや紫には合いの手を打つ気力すらなかった。

 

「恋しくは、したにを思へ、紫の、ねずりの衣、色にいづなゆめ。八雲紫。君はこう言いたいのだね? 『古明地こいしが悩んだように、私にも悩みがあるのです。それは自身の寝姿です。女性らしい色気も、小動物のような可愛らしさもありません』……と」

「……うふふ」

「恥ずかしがることはない。例え色気が皆無なのだとしても、君ほどの器量があるのならば別の幸せだってあるだろう。まあ、このような自虐の念を伝えられても、僕にはどうしようもない事この上ないが」

「素晴らしいわ。見込み以上ね」

 

 僕にとっては造作もないことさ、と。

 霖之助はとても満足気な表情で、同じく笑みを湛えている紫へと視線を合わせた。

 しかし、自身の解に気を良くした霖之助は、紫の笑顔の質に気が付いていない。

 瞬間。霖之助の体が、足元に生まれた隙間へと落ちていく。

 

「少し頭を冷やしていらっしゃい」

 

 刹那の浮遊感。間もなく霖之助が感じたのは、湯の熱さと衝撃。

 迸る飛沫が湯気を増殖させ、視界一面を白で覆い尽くした。

 風呂……? いや、それにしては涼しい風が肌を舐めている。

 腰の高さまである湯は確かな温かさを持っていて、霖之助を衣服ごと濡れ鼠へと染め上げていく。

 なるほど。頭を冷やせとは上手い事を言う。湯に落ちれば体は温かく、浸かっていない頭部は温まらない。

 しかしそれでは冷やすということに繋がらないのでは?

 などと、頭を働かせていると、やがて緩やかに視界が晴れていった。

 頭上には夕陽の紅光。周囲には手作り感漂う岩の円。そしてこの湯……。

 

「そうか。ここは博麗神社傍に作られたという露天風呂……か」

 

 得られた情報と伝聞した知識とを兼ね合わせ、現状を納得できる単語で導き出した。

 恐らく間違いあるまい。

 なにより地獄烏と火車猫と、そして紅白という娘三人がいたのだから。

 

 正面にいる人物……博麗の巫女、博麗霊夢。

 齢十四、五の少女である彼女は、突然の来訪者に対して反応が出来なかった。

 湯船に浸かり至極の時を過ごしていたところ、予期せぬ水飛沫が彼女を襲ったのだ。

 頭からお湯を浴びせられた霊夢は、何事かとほぼ無意識の内に立ち上がり、衝撃のあった方向へと体を向けたのだが……。

 晴れてきた湯気の向こうに居たのは、彼女にとって馴染みの深い男性、森近霖之助の姿であった。

 動揺ではなく唖然。霊夢が感じたのはそのような感覚だ。もう、ホントに何事かと。

 自身の頭から滴り落ちるお湯すらも、今の彼女にとっては意識の外にあるようだった。

 その水滴の一滴が彼女の首筋をなぞり、微かな起伏を伴なった胸元へと緩やかに流れていく。

 ふくらみへと辿り着いた滴は、そこでやや速度を弱めたものの、やがて引力に引かれ、彼女の肌から離れていった。

 

 その水滴の着地地点は水面……ではなく、赤毛の丸まり。

 水滴はトレードマークであるみつあみを解いた彼女、火焔猫燐の頭へと、ぴとん、と落ちた。

 じゃれついていたのだろうか。お燐は霊夢の腰回りに抱きついている。

 湯船に座る者の横手から抱きつき、相手が立ち上がろうともしがみついたまま……。

 そういった経緯を辿ったからこそ、このような体勢でいるのだろう。

 体の前面部は水面下に隠れたままであったが、形の良い臀部だけが、ぷかりと水面に浮いていた。

 視線だけは霖之助に向けたまま。

 

 そんな二人の少女の背後にいるのは霊烏路空。

 彼女も霖之助が撒き散らした水飛沫による被害を受けたのだろう。

 両目を閉じたまま、頭と双翼をぷるぷると震わせて、顔にかかってしまったお湯を払い落そうとしている。

 手で拭えば済むことなのだが、彼女は必死に体を揺らすのみ。

 同時に揺れる。たゆんと。……たゆん……と。

 固まってしまった少女と、その腰に抱きついたままの少女。

 彼女らでは到底届かないであろう、年相応以上に発達した一部分が。

 

 それにしても霊夢……。君は一向に成長していないのだね。

 視覚という感覚器官から必要以上の情報を入手してしまった霖之助。

 彼は落ち着いた動作で眼鏡を外し、心を落ち着け、やがて襲いかかるであろう衝撃に備えて、そんな益体もないことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「頭は冷えたのかしら?」

「肝が冷えたよ」

「それは重畳。言うことなしですわね」

 

 頭上から聞こえた声に霖之助が反応する。

 彼が横になっている場所は博麗神社の母屋であった。板張りの縁側で気だるそうに体を崩している。

 衣服は彼が好んでいるいつもの一張羅ではない。現在身に着けているのは浴衣であった。

 以前守矢の神社で借りた浴衣。曲折を経て、この浴衣は霖之助の物となっていた。

 この浴衣が博麗神社にあったという理由にもまた短くない物語が存在しているのだが。

 ともあれ温泉に叩き込まれた霖之助は全身ずぶ濡れとなってしまい、一張羅は庭の物干し竿に干されている。

 乾くまでの間に着用する衣服として浴衣を着こんでいるのだ。

 未だに夕の冷えを甘く見ることはできない季節ではあるが、人よりも強靭な肉体を持つ霖之助にとっては我慢できる範囲でもあった。

 

「理由もなく僕を懲らしめようという君の気概は……まあこの際置いておくとして、温泉へ隙間を繋げたのはやり過ぎではないのか?」

「理由もなくって貴方……ふう、貴方はまさしく霖之助だということね」

「すまない、意味が良く、」

「黙らっしゃい」

 

 すぱん、と。

 折りたたまれた日傘で霖之助の頭を叩く紫。

 

「頭の冷えはともかく、肝が冷えたというならば効果覿面というところかしらね」

 

 紫の言葉を聞きつつも、霖之助はむくりと起き上がる。

 心持ち藪睨で紫を射るも、叩いて当然と考えている彼女には効果がなかった。

 

「ともかく。温泉では霊夢や他の娘達と鉢合わせになってしまった。それに関する謝罪はないのかい?」

「あら。眼福でなくて?」

「……死を垣間見たよ」

「当然の対価、ですわね」

 

 霊夢は普段、男女の機微を感じるどころか、その感情を放り投げて夢想封印しているかの如き態度をみせる少女だ。

 なのだが、突発的な出来事……それが特に羞恥に関する事柄の場合、彼女は滅法弱くなるのであった。

 今回の露天風呂突撃異変の際も、その反応は顕著に表れていた。

 霖之助に裸体を見られた、と判断した瞬間。霊夢はスペルカードに頼らない純粋な霊力を解放。

 霊力そのものを霖之助へと叩きつけたのだ。

 同時に燐による焔の妖力弾が炸裂。霖之助の身体は宙を舞う事となる。

 空だけはお湯を拭い終えた無垢な顔で、うにゅ? とその様を見ていたのだが。

 それでも霖之助を介抱したのは霊夢である。

 彼女は神社へと霖之助を連れて行き、替えの浴衣を憮然とした態度で差し出し、濡れた衣服を物干し竿へと掛けたのだ。

 そして一言。

 

『紫の仕業ね……』

 

 とだけ言い放ち、夕暮れの空へと飛び立っていった。

 今頃は紫の式である八雲藍を捕まえている頃であろう。当の本人は神社にいる、などとは露にも思わずに。

 

「猫や烏は既に地下へと帰ったみたいだが、霊夢に会ったら君からも話をするべきだと思うのだけれどね」

「はいはい。その辺りは心配しなくても良いわよ」

 

 本当に見られたくないと思っている娘ならともかくね、と。紫は聞かせるつもりもない言葉を小さく補足した。

 

「それで? 少しは考えを改めたのかしら?」

「件の暗号文のことかい?」

「……」

「傘を下ろしてくれないか。僕の頭は的ではないよ。……短歌、だね」

 

 霖之助の言葉に紫は慨嘆する。この男、知っていてはぐらかしたのかと。

 

「よもや。貴方は少女の集う湯殿への道を切り開きたくて恍けていたのかしら」

「待て。その道理は著しくおかしい。僕の風評を損なう言い掛かりだ」

「そうかしら? 霊夢の姿は好ましくなくて?」

「……僕は幼さに欲情する気質は持ち合わせていない」

「そうよね。現に阿求とも線を越えていないのだし」

 

 静々と。艶々と。紫は笑った。

 

「貴方は一般論的な嗜好の持ち主でしたわね。阿弥のときもそう。私のときも、」

「紫っ!」

 

 声が。

 霖之助の声が、紫の声を遮った。

 

「あ……」

「……」

 

 驚きと戸惑い。

 驚きとは、かつての記憶を口に出してしまった自身に対して。

 戸惑いとは、口から零れた事象の収拾に関して。

 紫は……己が吐いてしまった言霊を信じられずにいた。何故、今更、如何、と。

 

「わ……私は……」

「聞こえていない」

「え……」

「僕の耳には……何一つとして届いていなかった。そうだね、紫」

 

 霖之助は答える。紫とは視線を合わせずに。

 それが、彼らの約束であったから。

 

 

 

 

 八代目阿礼の子、稗田阿弥が転生の儀を終えた翌日。無縁塚で傷心に暮れる霖之助を抱きとめたあの日。

 その日から数えて数年後。

 二人は一夜だけ……関係を結んだことがあった。

 男は恋人を亡くした重荷を背負っていた。女は親友を亡くした重荷を背負っていた。

 男は弱かった。強さを得たかった。女は強かった。弱さを望んでいた。

 男は求め、求められた。女は求め、求められた。

 不安。安心。恐怖。欲望。悲哀。快感。憧憬。嫉妬。軽蔑。羨望。無念。焦燥。

 求めたのは何れかであり、得たのは何れでもあった。

 裏切りなどとはおこがましい。純真などとは口憚る。

 事実は、事実。

 だからこそ、今を今の二人たらしめる事象であり、今の二人たる経緯でもある。

 されども、翌朝から今の今まで口に出す事はなかった。

 暗に交わした二人だけの約束。これはただ、それだけの話であったのだ。

 

 

 

 

 その頸木が解かれた。

 紫の言葉によって。無意識の葛藤による感情の氾濫が、意図せず紫の内心から溢れだしたのだ。

 既に陽は寂滅している。宵闇が幻想の地を包み始め、博麗の神社に佇む男女へと慈しみの繊手を伸ばしていた。

 

「恋しくは、したにを思へ、紫の、ねずりの衣、色にいづなゆめ」

「……その詩は」

「僕はね、紫。君からこの短歌を聞いた時、ひとつ、浪漫とも言える儚さを感じたよ」

「儚さ……」

 

 止まっていた時を動かしたのは、霖之助の吐露だった。

 それは香霖堂で耳にした、遠き世の恋の詩。

 

恋心とは隠すもの。色鮮やかな衣のように、人目へと表す想いでは無い」

「理解……していたのね。朴念仁のくせに」

 

 彼の口から紡がれた意は、はたして同じものであった。阿弥の口からもたらされた意と。紫自身が見出した意と。

 言葉にならない感情が、紫の心を締め付ける。

 だが、彼の言葉は終を見ない。

 

「これが感じ得る確かな意なのだと思う。……思う、が。試しに描いてみると良い」

「描、く?」

「そう。想像の中で創造するんだ。『紫の』という句を、下の句ではなく、上の句へと掛けて」

 

 言われるがまま、紫は想像の中で『紫の』という句を短歌自体の先頭へと掛け直した。

 そこに生成されし、仮初めの詩は……。

 

「……嘘」

 

 

 

 

──紫の、したにを思へ、恋しくは、ねずりの衣、色にいづなゆめ──

 『紫の恋心は、色鮮やかな衣の前では秘するものだ』

 

 

 

 

「あ……ああ……、あああああああああっ」

 

 膝を屈した紫の口から、堰を切って嗚咽が零れる。

 色鮮やかな衣。……阿求が好んで着ている服は、それは鮮やかな色彩の花。

 そして、同じ嗜好をした女性もまた、鮮やかな花を好んで着ていた。

 親友であった、稗田阿弥も。

 

「阿弥……阿弥……あや……っ」

 

 強引な解釈。作法も儀礼も蹴飛ばした無茶な意訳。

 邪解もいいところだ。屁理屈もいいところだ。

 それでも、それこそが紫の解なのであった。

 阿弥と霖之助の仲を純粋に応援していた。だから短歌を阿弥へと送った。正しき意での願いと共に。

 阿弥との友愛を別にして、霖之助を好いていた。だから短歌を阿弥へと送った。無意識での慟哭と共に。

 気づかなかった。気づいていた。知らなかった。心では識っていた。

 故に、その短歌は紫の心を捉えて離さなかったのだ。

 

 少女の純真さと、女性の感情の狭間。乙女の恋心と、女の友情の狭間。

 それは、隙間妖怪の……心の隙間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜風が沁みるな……僕は風呂へ入り直すよ、と。そう言って霖之助は神社を後にした。

 神社の母屋に残されたのは一人の隙間妖怪。

 残されたと言えども、紫の心情は穏やかさを取り戻していた。

 それは去り際に言った、霖之助の一言があったからだ。

 

『戯言は得意じゃないんだが……その、なんだ。……紫。僕にとって、紫は紫、阿弥は阿弥だよ』

 

 相も変わらず女性への気配りが下手な男だと。紫は霖之助の気遣いを話半分で受け取っていた。

 阿弥が好きだった。そして霖之助も好きだったのだ。

 その感情を無意識に封じ込めていたからこそ、自身への重石となって発露したのだ。

 もしも阿弥へ伝えていたのなら。彼女は紫を責めたのだろうか。馬鹿ですね、と笑ってくれたのだろうか。

 もしも自身が気づいていたのなら。紫は霖之助と関係を結べたのだろうか。それ故に結ばれなかったのだろうか。

 過去は変えられない。変える気もない。

 出来る事と言えば、これからの日々に一歩足を踏み出す事だけ。

 八雲紫という存在が根源から変化する事はないのだろう。紫は八雲紫たらしく在り続けるのだろう。

 ただ阿求とは、いずれ女同士としての時間を見繕うべきであると考えていた。

 

「賢者と呼ばれようとも女の端くれ、ね。まだまだ未熟者」

 

 紫が星空へと呟く。

 そのまま視線を逸らさず、かと言って呟きではない言葉を続けた。

 

「いるのでしょう? 霊夢」

「……気づくな。馬鹿」

 

 建物の陰から姿を現したのは紫の指摘通りの人物であった。

 未だ幼さを残す博麗の巫女は、どのような表情を浮かべるべきなのかを掴みかねているようだった。

 しかし足取りは別。流れるように歩みを進め、紫の傍、縁側の床へと腰を下ろす。

 そして霊夢は紫に倣って星空を見上げた。

 

「……なんだか面倒ね。男と女って」

「霊夢の口から男女の四方山話が聞けるなんてね。お姉さん嬉しいわ」

「ったく。考えたくもないけど考えちゃうわよ。あんな話を聞かされたらね」

「……そう」

「ん」

 

 博麗の勘が働いたのか。紫を探しに飛び立った霊夢は、ふと思い立ち神社へと戻ってきていた。

 境内へと降り立った霊夢は紫の気配を感じ取り、どんな文句を言ってやろうかと母屋へ足を向けたのだが……。

 聞こえてきたのは男女の機微。

 勿論耳に届いた会話だけで全ての内容が理解できたわけではなかった。寧ろ不明瞭過ぎた。

 それでも想像は出来た。二つの意を含んだ短歌と、紫の嗚咽を耳にしたのだから。

 霊夢は恋というものを明確に経験したことはない。年齢的にも、生来の気質的にも。

 だが、察した。霊夢の内に眠っている女としての部分で。

 

「……」

「……」

 

 星空を見上げる二人に交わし合う言葉はなかった。

 この場にいるのは二人の少女。想いを持て余す、ただの少女達であった。

 

 少女の時間は四半刻ほど。

 奇しくも夜空から顔を戻したタイミングも二人同時で。互いに顔を向け合い笑いが零れる。

 にやりと頬が動いたのはどちらが先か。

 紫は隙間を開いて腕を差し入れ、霊夢は母屋へと上がり直ぐに戻ってきて。

 紫の手にはとっておきの銘酒が。霊夢の手には二つの杯が。

 

 

 これから先は語るべくもない。

 風呂から戻ってきた霖之助が見た光景が普段通りの少女達であったのだとしても、それこそ当然の帰結である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 春告精が運んできたのか。

 

 紫色の花弁がひとひら。澄んだ夜空に舞っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうですか。

 では、私からの返答はこれだけで。

 『知った事かそんなもん』。

 先代に対する貴女の感情はどうしようもないのでしょう? 既に過去の事なのですから。

 それに関して私に言われるのはお門違い甚だしいです。

 そして私に関して。それこそ謝罪など不要の長物ではありませんか。

 私は未だあの人の恋人ではありません。心底悔しいですけれど。

 だから貴女は貴女の思うが侭であれば良いのでは。

 ……勿論身を引く気など微塵もありませんけどね。

 いずれ私とあの人とが仲睦まじい鴛鴦夫婦となった暁には、逆に私が謝ってみせましょう。

 覚悟しておいてくださいね、八雲紫。

 

 って、だからどうして泣くのですかっ!? そんな笑顔で泣かれてもどうすれば良いのやら……っ。

 あーもう、それでも妖怪の賢者ですか貴女は……っ!?

 

 

 



 

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