「さて。君は一体なにをしているんだい?」

 

 夜の帳が落ち始めた夕刻。

 異国風の道具屋──香霖堂の店内には、未だ僅かに顔を覗かせている夕焼けの残光すら届いてはいない。

 窓もあるにはるのだが、軒先にある山積みの商売道具が外から差し込むであろう光を遮ってしまっている。

 その為、蝋燭でも灯さない限り、香霖堂の中には他所よりも一足早い宵闇が訪れる事となる。

 

 店主としての所用を終えた霖之助が帰宅すると、そんな薄暗がりの店内に一人の少女が立ち竦んでいた。

 ……歳の頃は十代前半というところか。首元にて切り揃えられた髪からは少女特有の香りが漂っている。

 多少の汗でもかいているのだろうか。顔見知りである少女の行動を思い、霖之助は顔に呆れを浮かばせた。

 

「また、来ちゃいました」

 

 少女は仄かな羞恥を滲ませた柔らかな微笑で応えた。

 ……彼女の感情に含められた羞恥とはなんなのだろうか。

 訪問時に相手が留守だった事に関してだろうか。相手に自分の状態を悟られてしまった事に対してだろうか。

 それとも一人暮らしの男性宅へと訪れた、年頃の女性特有の反応なのだろうか。

 いずれにせよ、彼女の顔に浮かんでいるのは愛らしい笑みであった。

──稗田阿求の暇潰し──

 

「幻想郷縁起?」

 

 霖之助は少女の言葉に対し、鸚鵡返しに問いかけた。

 その言葉に頷きをもって肯定の意を示した少女は、疑問に答えるべく話の詳細を語り始める。

 

 居間に置かれた卓袱台には二人分のお茶が鎮座していた。

 この対応は彼にしてみれば破格のもてなしである。

 普段の彼の接客態度を知る者からすれば、来客に対してこのような上等なお茶を振舞うなどと言う事は驚愕に値する事であろう。

 ひとしきりの理由を語り終えた少女は、目の前にある湯呑を手に取り、啜る音も立てず深緑色のお茶を口に含んだ。

 鼻に抜ける香りが心地よい。

 

「僭越ながら、これはそちらの宣伝にも繋がる内容かと存じます。多少のご迷惑もお掛けするかもしれませんが」

 

 彼女は自らの提案を纏めつつ、苦笑気味に締めくくった。

 相手の利のみならず、被るであろう損まで実直に伝える。

 商売人としてはどうかと思えるが、人となりとしては好意に値する対応だった。少なくとも霖之助にはそう感じられた。

 それが引き鉄にでもなったのか、霖之助の顔にも苦笑が浮かんだ。

 そして一言、承った、と。

 

 彼女からもたらされた依頼とは、半妖である彼、森近霖之助の取材であった。

 半妖──それは人と妖の血が混ざり合った半人半妖という稀少な種族の事だ。

 人よりも長寿な生命ではあるが、妖怪を上回るほどの力を持っているわけではない。

 人と妖、それぞれの長所と短所を兼ね備えた存在である。

 

 霖之助の前に座る彼女は、幻想郷縁起という郷土史を編纂する役目を担っていた。

 その執筆にあたり、人物に詳細を当てた項目を書き足したいとのだいう。

 以前までの幻想郷縁起に書かれていた該当記事は、所謂伝聞を基にした記述でしかなかった。

 彼女は持ち前の好奇心を発揮し、自らが見聞きした内容を持って書き直したいという素直な要望を伝えてきたのだった。

 

「それでは早速説明させて頂きましょうか。改めてようこそ、幻想郷一の道具屋へ」

「ふふっ。よろしくお願いしますね」

 

 よほどこの店を誇りに思っているのだろうか。霖之助の態度からは宝物を自慢する子供のようなイメージが見て取れた。

 彼の態度に可笑しさと好ましさを感じた少女は、ころころとした鈴の音が鳴るような笑顔で答える。

 不意をついた反応に毒気を抜かれた霖之助は、困ったように苦虫を噛み潰した。

 

 この娘には敵わないのかもしれないな、という漠然とした思いを感じ始めたのは、まさしくこの瞬間からだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「暇なんですよ。どうにかしてください」

「お帰りはあちらだよ」

 

 にべもない少女の言葉に対し、霖之助の顎は出入り口を指し示していた。

 彼の対応が気に触ったのか、少女は不貞腐れつつも勝手気ままに居間へ上がりこむ。

 その動きに淀みはなく、勝手知ったるなんとやらだ。

 軽い溜息。霖之助は遠慮のない少女の背に呆れ気味な声を投げかけた。

 

「阿求。どうせなら夕食でも用意してくれ」

「あらあら。そんな事を気軽に頼んでもいいのでしょうか? これではまるで通い妻のようです私」

「君の暇潰しに付き合う相応の対価だと僕は思うのだけどね」

「……はいはい。つれない返事の唐変木さん」

 

 やっぱり和食でしょうね、と。台所へ姿を消していく少女。

 愚痴を零してはいたが、それでもその場に残していったのは嬉しそうな笑みだった。

 彼女──稗田阿求の後姿を視界に留めつつ、霖之助は手にしていた風呂敷を接客台へと下ろす。

 無造作に置かれた布の中には、彼が無縁塚にて収拾してきた商売道具が包まれていた。

 夕食後にでもこれらの鑑定を行うつもりであったのだが、阿求のおかげで料理にあてられるべき時間を仕事に費やす事が出来そうだ。

 手元に置かれたランプに火を灯し、作業開始の準備を整える。

 それと同時に朗らかな声が霖之助へ届けられた。

 

「霖之助さ~ん。玉子焼きは甘いのとしょっぱいの、どっちがいいですか~」

 

 間を外す絶妙なタイミングだ。仕事へと向けられていた意識が綺麗にこそげ落ちていく。

 だがここで彼女を放っておくと、この後何を言われるかたまったものではない。

 彼女の声に負けない大きさで、投げやりな返答を返す霖之助だった。

 そして霖之助はようやく作業に集中し始めた。だが、無意識の内に呟きが漏れてしまう。

 

 そんなこと、君が一番知っているだろうに、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正気かい?」

「……そこは本気かと問う場面だと思います」

 

 無縁塚。彼女はそこへ行きたいと申し出た。

 彼岸を分かつ三途の川。命あるものは近寄ろうとも思わないその場所を目指すのに、必ず通り抜けなければならない存在が無縁塚だ。

 不敬な者でも惧れを持ち、更には妖怪亡霊が跋扈する幻想郷でも随一の危険地区である。

 

 霖之助にはそんな場所へと好き好んで足を運ぼうとする彼女の思考が理解できかねていた。

 取材も終わり、しばらく姿を見せることもなかった彼女だったが、今朝方、突如無茶とも言える要求を土産に彼の元へと訪れてきた。

 その際に彼女が強請ってきたのが無縁塚への道案内、ないしは護衛という依頼であった。

 

「そもそも君にしてみれば、幾度も通り過ぎている馴染みの場所だと思うのだが」

「む。そう言われると、まるで私が彼岸の客人みたいではないですか」

「……似たようなものだとばかり思っていたよ。違うのかい?」

 

 何をのたまうのかこの眼鏡は。

 彼女の心情に霖之助=慇懃無礼という式が成り立った瞬間は、まさにこの時だ。

 

 確かに『阿礼の子』である彼女はこれまでにも数回の転生を経験している。

 その度、彼女は三途の川を渡って閻魔の元へと赴く。

 死後、転生先の肉体をあてがってもらうまでの間、閻魔の仕事を手伝うというのが彼女の通例であるからだ。

 その経緯もあり、阿礼の子にとって無縁塚とはただの通過地点なのだと霖之助は判断していたのだが……。

 

「本当に通り過ぎるだけなんですよその場合は。しかも私達にとって、転生とは……」

 

 全ての記憶を引き継ぐ万能な事例ではないのです、と。

 彼女は伏し目がちに言葉を綴った。

 

 阿礼の子。

 それは幻想郷の郷土史を編纂する役目を負った特殊な輪廻を繰り返す者である。

 初めの者、阿礼から脈々と続くその系譜には他に類を見ない特別な能力が与えられていた。

 即ち、『一度見聞きした事を忘れない程度の能力』である。

 その能力を最大限に活用し、阿礼の転生体である初代阿礼の子、阿一から名を連ねる歴代の阿礼の子達は幻想郷縁起を書き続きてきた。

 

「ですが一般に知られている事と違う点があります。……それは、私達の記憶の事です」

 

 少女は言葉を続ける。視線は霖之助から外され、自らの手元に落ちていた。

 

「私達阿礼の子は初代からの記憶を全て内包していると思われていますが、実際引き継がれるのは幻想郷縁起に関する事柄のみだったりします」

 

 阿礼の子が得た日常の記憶は各々個人の持ち物。それは人として最低限守る事を許された慰みなのかもしれない。

 だからこそ彼女は自分以外の阿礼の子が持ちえた記憶を認識する事が出来なかった。

 ならばかつて見たであろう無縁塚の光景など知る由もないのは当然だ。

 

 これは秘密ですよ、と。少女は仄かに桃色づいた小さな舌をぺろりと出して、悪戯をごまかすような仕草を見せる。

 その光景を目の当たりにした霖之助は、己の心の内に僅かな疼きを感じていた。

 

「わかったよ。僕と一緒ならそうそう危険な事もないだろうしね。その新しい依頼、引き受けようじゃないか」

「やった。だから霖之助さん大好きです」

「言葉半分に受け取っておくよ」

「え~」

「……一つだけ教えてくれないか? それを僕が依頼を受ける条件とさせてもらおう」

 

 少女によるからかいに憮然とした態度を表していた霖之助だったが、投げかける質問には純粋な好奇心が含まれていた。

 

「なんでしょうか? あ、いやらしいお話なら程ほどにしてくださいね。これでも乙女を自負しておりますので」

「どうして無縁塚なんだい?」

 

 僅かな間。

 即答を避け、彼女は頭上を見上げた。霖之助も彼女に習い首を上げる。

 眼前に広がるのは、果てのない蒼穹。

 少女は捕まえる事が出来ない何かを探すように、想いを声に乗せて解き放った。

 

「紫桜が、見たいんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ。鴛鴦夫婦がいますわ」

「……どこから顔を出しているんだい君は」

「ホントです。神出鬼没にも程がありますね」

「ふふっ。その言葉は貴女自身が書き連ねた事実なのです。ですから私も相応の行動をとっているだけなのです」

 

 夕食後、まったりとお茶を嗜んでいる二人の頭上に現れたのは、幻想郷古参妖怪の一人である八雲紫だった。

 胡散臭い言葉遣いとそれ以上に胡散臭い笑顔を覗かせつつ、その妖怪は空間に歪み出でた隙間からその身を躍り出す。

 そして数瞬後には、当たり前のようにお茶を要求する自称少女な妖怪の姿があった。

 

「どうぞ、妖怪の賢者。緑茶でよろしかったですよね」

「ありがとう阿求。……ええ、これは良いお茶ね」

「どういたしまして。出来れば紅茶も用意したいところなんですけど」

「阿求は紅茶がお気に入りですものね」

「はい。ただ家には我侭なお方がおりまして。現在は日本茶一辺倒というなんとも無体なおもてなしになってしまっています」

「……どこが誰の家だっていうんだ」

 

 くすくすと笑いを零す女性二人に囲まれ、霖之助は本日何度目かわからない溜息をつく。

 この二人は僕の家をなんだと思っているのかと。

 

 この三人の付き合いは、無縁塚で出会って以来の長いものである。

 一面に広がる紫桜。声にならない感嘆と共にその光景を見入っていた二人の前に、八雲紫はその姿を現した。

 当初は警戒心を抱き合っていた霖之助と紫だったが、少女が発した無垢な一言が今の関係を築く切欠となったのは僥倖といえばそうなのだろう。

 かくして達観した半妖と隙間な妖怪、無邪気な阿礼の子という三人組が、揃ってお茶を囲むという奇妙な現実が生み出されたのだ。

 

「丁度良かった。阿求を彼女の家まで送ってもらえないだろうか?」

「あら。私に命令が出来るなんて、貴方も偉大な人物になったものですわね」

「命令でなくてお願いだよ。もしくは借りを返してもらうだけだ」

「借り、ですの?」

「君の式には本当に手を焼かせてもらったよ。君はもう少し、自らの式を自重させるべきだと思うけどね」

 

 かつて。八雲紫の式である八雲藍が己の主と霖之助の関係を問いただしてきた事があった。主人の良い人なのではと。

 その時に行われた舌戦により、精神的な疲労ばかりでなく物理的な損害をも被ったのはまた別の話だが。

 

「そう言われてしまっては仕方ないですね。いいでしょう」

「良くないです。今夜は閨を借りるつもり満々だった私の心はどう処理すればいいんですか」

「上白沢の先生にでも泣きつくといいさ。それと紫、いい加減その言葉遣いはやめてくれないか? 鳥肌が立つ」

「はいはい、わかりましたよ、と。これでいい? 店主さん」

 

 霖之助からの反応はない。彼は既に仕事机へと背を向けていた。今日仕入れてきた品物の鑑定をしておきたかったのだ。

 既に自分の趣味兼仕事に没頭し始めている。その段階に移行した霖之助には並大抵の言葉は届かない。

 その事を知ってはいるものの、いや、だからこそか。紫は彼に言葉を送る。

 それは儚くも、純然たる事実を言霊にしたかのようだった。

 

「貴方の心にある隙間……好ましいわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「素晴らしい」

 

 嬉々とした笑顔が霖之助の顔に浮かんでいる。

 彼の興味を集めきっているのは見たこともない品々。それは幻想郷には存在していなかった、外の世界の道具だった。

 

 無縁塚において邂逅した妖怪、八雲紫の案内によって訪れた幻想郷の端において、霖之助はそれらの道具との出会いを果たした。

 いずれも常人には理解不能ながらくたであったが、彼の持つ『道具の名前と用途が判る程度の能力』との相性は優れていた。

 使用方法まではわからないものの、それらの道具はまさに宝の山だと言っても過言ではない存在であった。

 

「……なんですかこれ」

 

 目の前の道具に彼の興味を奪われている少女は、やや拗ねた面持ちで、足元にある四角い箱を足の先でこつんと弾いた。

 

「蹴らない蹴らない。まったく、壊れてしまったらどうするんだい」

「壊れてしまえばいいのに」

「そんなことを言うものではないよ。これはね、テレビジョンという名称の道具らしい。原理はわからないが、遠くの景色の霊を映し出すことが出来る箱だよ。なんとも稀少な能力を持つ道具じゃないか。いや、本当に愕きだ。外の世界には我々の想像を上回る道具が溢れているらしい」

「ふぅん。なら使ってみてくださいよ」

「さて、ちなみにこの円盤は……」

 

 いつになく饒舌な霖之助は、次から次へと道具の説明を始めていた。

 少女の心情など今現在の彼の思考では微塵も感じ取れない。彼の中では自身の世界が展開していることだろう。

 結局、一通りの品定めを終わらせるまで、霖之助は少女の機嫌に気が付く事は出来なかった。

 

「……なぁ、もう機嫌を直してはくれないかな。いかに僕だと言えども無視が続くのは堪えるのだが」

「……」

「あ~、その、なんだ……。阿礼乙女、さん?」

「それは通り名ですね。誰の事でしょうか」

 

 まさしく自業自得な霖之助だった。

 必死になって少女の機嫌を伺っているその様子は、どこにでもいる普通の男女のようにも見える。

 だが、霖之助は自分の変化を認識できているのだろうか。無視が堪えると彼は口にしたのだ。

 そう思えるまでに彼女の存在が大きくなっているのだという事に、彼自身は気付いているのだろうか。

 

 その日の最後まで霖之助の弁解は続いていた。

 

 明けて翌日。

 起床した少女は寝巻きのまま自身の家の裏手にある井戸へと寝ぼけ眼で歩いていた。

 彼女は朝に弱い。冷たい井戸水で顔を洗うまで、夢心地のままふらふらと危なっかしい動きを見せていた。

 春とはいえ稗田家にある井戸水は刺さるような冷たさを保っている。

 その水で寝汚れと眠気を流し終えた彼女は、自分の意識が鮮明になってきたことを自覚した。

 

 だから先に気が付いたのだ。慣れ親しんだ息遣いが近づいてきた事に。

 

「朝から精が出ますね、霖之助さん」

 

 振り返った少女の前に息を切らした霖之助が現れた。

 その彼からは傍目にも興奮を感じ取れた。彼女の両肩を掴み、いいから聞いてくれの一点張り。

 あの彼が前後不覚に陥る程の出来事があったのだろうか。

 気が急いている彼は矢継ぎ早に言葉を続ける。

 昨夜、素晴らしい商売の案件を思いついたと。いずれ自分が独立した暁にはその商売を持って幻想郷に偉大な進歩を促せてみせると。

 

 しかし彼女には別の懸案事項が存在していた。

 大きな家である稗田家。その裏手にある井戸をどうしてこの男性が知っているのかは疑問であるものの、それは大した問題ではない。

 重要なのは、今の彼女自身の格好だった。

 

「夜這い、いえ、朝這いとでも言うのでしょうか? 嬉し恥かし乙女の危機ですね」

 

 その言葉を受けて霖之助の視線が下がる。

 少女の顔から首元、肌蹴た鎖骨、淡く膨らみ始めた胸へと。

 そしてようやく気が付いた。自分が迫っている少女のあられもない姿に。寝巻き、肌襦袢のみをその身に纏った少女の姿に。

 しかも自分の両手を肩に置いたことにより、そのなけなしの一枚は艶かしく着崩れていた。

 霖之助は咄嗟に背を向けるも、彼の瞳はしっかりと彼女の肌を記憶していた。

 少女から女性に成り代わる、禁忌的な魅力に溢れた柔肌を。

 

 彼の背から呟かれる謝罪の言葉に構いませんよと返事を返す少女は、何事もなかったかのような落ち着いた仕草で乱れた服を直している。

 彼女の言葉には、羞恥よりもからかいの感情が多分に含まれていた。

 これからしばらくの間、彼女と彼の間ではこの出来事による親交が交わされることになるだろう。あくまでも少女の攻勢は変わらないだろうが。

 ただ、少女自身も気がついてはいなかったのだろう。あくまでも落ち着いた物腰に隠されてしまっていた、歳相応の表情を。

 

 彼女の頬には、風に靡く紅葉の如く、薄い、紅が注していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の鑑定が終わった。

 大きく息を吐き出した霖之助は、懐から懐中時計を取り出して短針の位置を確認する。

 既に時刻は夜半となっていた。

 

 今日──既に先日だが──仕入れてきた品々の鑑定を終わらせると、商売として使用できる商品以外を奥手にある倉庫へと運び始める。

 その倉庫とは混沌としか言いようのない魔窟だ。

 この中には現在では使用方法の判断をしかねる道具が積み込まれている。

 その量、状況を知った者にとっては、店内の荒れ具合など気にもしない事だろう。それほどまでに雑多な空間と化していた。

 

「この倉庫には数え切れない道具がある」

 

 その途中。霖之助はひとり呟いた。

 

「それだけ外の世界では、様々な道具が幻想と化している……」

 

 言葉の意味はそのままだった。

 幻想郷に届く品は基本的に外の世界で忘れ去られた物、人々の幻想と化した物だからだ。

 多種多様な品が姿を変えて、無縁塚へと落ちてくる。

 これは以前霖之助が予想したとおりの結果でもあった。これらの品は、無限に手に入る物なのだと。

 

 妖怪の賢者、八雲紫から無縁塚の果てを紹介してもらった当時、霖之助は現在の商売に関する基盤を思いついた。

 無限に手に入る外来品、それを自身が持つ能力を駆使して商売道具にできないかと。

 一般人にしてみれば外来品の能力は魅力的だろう。問題なのは用途と使用方法が不明な事だ。

 そこで彼の能力が本領を発揮する。僅かでも内容が理解できれば、芋蔓式に使用方法も判明できなくもない。

 ならば需要と供給は安定しているも同義だ。

 ただ、一点だけ疑念もあった。

 八雲紫だ。

 彼女は何故僕にこれらの品を提示してきたのか? 当然仮説はいくつか思いついていた。しかし所詮は仮説。真実とは程遠い。

 本人に尋ねたこともあったが、その結果は思い出したくもない。

 やがて霖之助は気が付いた。無縁塚に落ちてくる品の中に本当の意味で幻想郷を脅かす道具は無いのだと。

 所謂兵器、並びに扱いきれない危険さを含んだ道具の類の事だ。

 それらは幻想と化していないのか、それとも不可思議な世界の力でも働いているのか。

 ……もしくは、世界の管理人を名乗る彼女が人知れず処分してくれているのではないか。

 憶測はいくらでも浮かんでくる。だが、重要なのは結果だ。誰憚る事もなく外来品で商売を行う事が出来る、という事が一番の論点なのだ。

 

 そこまで思い出を浮かべた霖之助は同時にあの日、案件を思いついた翌日の早朝にあった出来事を思い出した。

 自分の目論見に興奮した朝。誰よりも早く彼女に伝えたかった。いつの間にか彼女の家へと駆け出していた。

 そして知ってしまった。少女は魅力的な女性なのだと言う事を。

 人間としての彼女にはそれ以前から好意を持っていた。だが、あの出来事によって、計らずとも女性としての魅力に気が付いてしまった。

 そんな、特別な朝の事を。

 

「……今更何を」

 

 軽く頭を振り、倉庫との往復を再開する。今の自分は香霖堂の店主だ。人と妖の狭間に立つ道具屋。

 ただ、それだけだ。

 

 ──結局、今回仕入れた品は全て倉庫に押し込まれることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幾何かの時が流れた。

 

 霖之助は勤めている道具屋、霧雨店での勤務を続けながらも無縁塚巡りを繰り返していた。

 いつか自身が独立した際に滞りなく店舗を構える為、商売道具の収拾に余念がなかったのだ。

 やがて収拾品の量も溢れんばかりになり、保管場所という問題に頭を悩ませ始めた。

 そこで彼は、魔法の森と呼ばれる地区の入り口側に倉庫を構える事にした。将来的にはその倉庫を店舗兼住居にするつもりだった。

 この場所を選んだ理由は二つ。

 一つは無縁塚からさほど離れていない事。あくまでも人里に比べてだが。

 二つ目は来客者の想像からだ。人間は勿論の事、恐らくだが知能を持った妖怪をも相手に出来るのではないか。それが彼の判断だ。

 ならば人里に店舗があっては何かと問題が起こりえるだろう、と。

 

 彼は独立をするその日を夢に描いて日々を過ごす。

 今はまだその時ではない。霧雨の家には恩も義理もある。なにより自分の修行は続いているのだ。

 胸を張って店を構えることが出来るその日まで。

 

 そしてもう一つ。彼にとって大切な時間が生まれていた。

 少女との逢瀬だ。

 お互い時間を都合しては他愛も無い会話を楽しんでいた。

 それは二人きりでの慎ましやかな時間でもあり、時には妖怪の賢者を交えた雑談会でもあった。

 いずれにせよ、気が付けばその時間は彼にとって心休まる穏やかな時になっていた。

 充実した日々が過ぎていく。彼にとっても、彼女にとっても幸せだと言い切れる日々が。

 

 彼らが男女の関係になるのに、それほど時間を必要とはしなかった。

 少女は女性となり、彼は一層の努力を重ねた。

 賢者は二人をも守りつつも、心底勘弁して欲しいと願わずにはいられない程度のちょっかいを仕掛けてくる。

 そんな、嫋やかな日々だった。

 

「霧雨の家に、赤子が生まれたらしいですね」

 

 興味津々な様子で伝聞した噂話の真相を霖之助に問いかける。

 いつもの逢瀬。彼女は広げた敷物に座り、膝の上には霖之助の頭を乗せていた。

 膝枕の格好で寛ぐ霖之助をからかうのは優雅に杯を傾ける紫だ。

 無縁塚には紫の桜が咲き誇っている。

 一年に一度無縁塚を浄化し、迷いを断つという妖怪桜が彼らの頭上で幽玄な吹雪を舞い散らせていた。

 

「とても健やかな赤子だよ。親父さんも手を焼くほどのね」

「それはそれは。かの店も安泰かしらね」

 

 霖之助の言葉に紫が笑顔で応える。

 彼女は妖怪だけでなく、この幻想郷自体を愛していた。妖も人も、景色やその存在に至るまで。

 それが妖怪の賢者、幻想郷の守護者、八雲紫だった。

 

「霧雨の家の子は努力家だからね。あの子も将来は一角の人物になると思えるよ」

「元気すぎて人様に迷惑をかけるかもしれないわよ?」

「それもまた人の子だよ。あの子が、ないしはその子孫が幻想郷を縦横無尽に駆け回る日々が来たとしても、君が出張ればいい事だ」

「お断りしますわ。貴方が住む家の子でしょうに。そのような子が生まれたとしたら、あなた自身がなんとかなさいな」

 

 気楽な笑い声が無縁塚に響き渡った。

 彼は幻視する。今の子が育ち、新たな命を育み、歴史を紡いでいく事を。

 許されるなら、影から見守っていければ良いと。

 その時、彼はどこにいるのだろう。

 その時、頭上の彼女はどこにいるのだろう。

 

「……私、転生の儀の準備を始めます」

 

 彼女の呟きが、三人の現実を揺り動かす。

 辺りを埋め尽くす紫色が、さぁっと世界を凪いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何故君が僕の布団を占領しているのか、理解できる説明を願いたい」

 

 倉庫との往復を終えた霖之助が寝床へ向かうと、彼の布団に寝そべった紫が出迎えた。

 その姿は妖艶そのもの。人をからかう雰囲気をそのままに、豊満な肢体を艶かしく覗かせている。

 紫が身につけているのはネグリジェと呼ばれる外来品だ。

 女性用の寝巻きらしいが、一般的な羞恥心を持つ女性ならばそれを身につけた際、男性の前に姿を現すとは考えにくい一品だった。

 それも恋人でもない友人程度の間柄を相手にするのなら言うまでもない。

 

「貴方の情欲、嫌いではなくてよ。知らない仲でもなし。私だけの秘密にしても良いと誘ってあげるわ」

「その気も無いくせに。君が風邪をひくかは疑問だが、はやいところ着替えてくれないか?」

「あら。温めてはくださいませんの?」

「ストーブがご要望なら店に回ってもらえるかな」

 

 紫の悪戯は今日に始まったことではない。以前から、そう、あの頃から変わりなく人を弄ってくる。

 流石に当初は慌てふためいていた霖之助であったが、今の彼にはそう簡単には動揺を与えられない。慣れとは怖いものだ。

 つれない方ですわね、と含み笑いを零す紫はその場に立ち上がり、何を思ったかネグリジェを肌蹴け落とした。

 自らの横手に隙間を開き、濃紺のワンピース、帽子や下着の類を引き出す。

 彼女は霖之助の前であろうとも気にせず、静々と着替え始めた。

 貞淑な面もあれば、こんな一面も見せる妖怪、八雲紫。

 だから霖之助は彼女をこう判断するのだ。

 胡散臭いと。

 

 既に後ろを振り返っていた霖之助は、眼鏡を外して収納用の箱にしまい込んだ。

 一枚だけ上着を脱ぎ、就寝準備は完了。後は布団に潜り込むだけだったが、その布団は隙間妖怪が占領したままだ。

 どうしようかと思案していたところ、もういいわよ紳士さん、と声がかかる。

 振り向いた彼の眼に映ったのは、ゴシックなワンピースを纏った賢者だった。

 既に彼女の瞳からは悪戯心を感じなかった。

 

「阿求の送り、ありがとう」

「隙間を開いてほんの一歩。手間でもないわ」

「なら君も手間を掛けずに帰るといい。式が待っているのだろう」

「そうね。これでお暇するとします」

 

 霖之助が布団に足を入れるのと同時に紫は新しい隙間を開いた。

 一歩進み、隙間をくぐろうとしたその時。

 

「阿求は阿求。言うまでもないでしょうけどね」

 

 振り向きもせず紫は断言した。あえて口にする事もない現実。当然の意味だ。

 それでも霖之助は息を呑む。肺が縮まり、心臓の鼓動が消えうせる錯覚を得る。

 

「紫っ!」

 

 霖之助が声を発した時には隙間が消えていた。元から存在していなかったかのように。

 眼鏡を外した裸眼の瞳には、世界が歪んで見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二十歳を過ぎた阿礼の子は転生の儀に備える。

 

 阿礼の子の寿命は短い。平均で三十も生きれば長いほうであろう。

 彼ら阿礼の子は、幼き時分より自代に課せられた幻想郷縁起を書き始める。

 やがて執筆が終わると共に、僅かな人生を謳歌する。それはあまりに短い自由だった。

 齢を重ね、二十歳を迎える頃になれば次代への道を開かねばならないのだから。

 転生の儀は輪廻の円から外れる例外中の例外だ。行う為には自身の体、精神、そして念の入った準備が不可欠である。

 その行為は数年の期間を要する。

 すなわち阿礼の子の人生とは、三分の二以上が幻想郷縁起の執筆と転生の儀に費やされる計算となるのだ。

 

「知っているさそんなことは」

 

 紫の言葉を切り裂くように霖之助は吐き捨てた。

 今年もこの場所には紫桜が舞い踊っている。

 日課となった無縁塚への訪問は今日も絶やさない。例えそれが特別な日なのだとしても。

 ただ違う点が一つだけあった。その日に限って紫が出迎えたのだ。

 彼女は一人杯を傾け、紫の世界を肴に花見をしていた。

 楽しそうに。幽玄に。そして、寂しそうに。

 

「貴方は理解していた筈。阿礼の子との繋がりは儚い夢でしかないのだと」

「言われるまでもない」

「それでも貴方は選択した。阿礼の子との繋がりを」

「後悔などしていない」

 

 紫との問答が続く。

 その言葉は彼の心を穿つ刃だった。

 優しく蓋をした思い出の中にまで、隙間を開き入り込んでくる。

 いくら自覚しようとも、自身の答えと他者から突きつけられた事実は別物だ。それゆえに紫は抉り続ける。

 彼が眼を逸らさないように。

 一人だけの世界に閉じこもらないように。

 やがて紫の問答は最後の質問を迎えた。

 紫桜の花弁が、彼女の手から零れ落ちた杯を無音の優しさで包み込んだ。

 

 

 

「貴方は阿弥を愛していた?」

 

 

 

 阿弥。阿弥。阿弥。

 

 彼女の名前が耳に届くと、彼女と過ごした日々の全てが霖之助の脳裏で連鎖的に甦った。

 出会い。繋がり。喧嘩。愛情。

 彼女の声。彼女の匂い。彼女の感触。彼女の想い。

 愛していた。愛されていた。短い時間とは言え、いや、短いからこそ全力で愛し合った。

 なんでもない毎日が愛しかった。他愛もない時間が楽しかった。

 彼女との未来を夢想した。

 三人で過ごした限りある日々は、絶え間なく輝いていた。

 

「阿弥……」

 

 霖之助の口から愛した女性の名前が零れ落ちる。

 

「僕は、君を愛していたよ……」

 

 霖之助の瞳から、想いが涙となって溢れ出す。

 それは涙だった。昨日から今まで、一度も浮かばなかった哀悼の涙だった。

 紫の両手がそっと彼を包み込む。

 彼らを見ているのは紫の花だけ。

 今ここには、同じ想いを抱えた二人の男女しか存在していない。

 

 そして霖之助は、現実と向き合えたのだ。

 逃げ出していた、認めようもない現実から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八代目阿礼の子、稗田阿弥の転生の儀が完了したのは……先日のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年も無縁塚には紫桜が咲き誇る。

 

 迷いを断つというこの花は、半妖の想いも取り扱ってくれるのだろうか。

 取り扱うという単語に、霖之助は心の芯まで道具屋なんだなと苦笑を浮かべた。

 紫桜はただそこにある。

 あの日のまま。あの日とは違う桜吹雪を運んでくれる。

 

 紫の一言を聞いた霖之助は、終ぞ眠りに落ちることは出来なかった。

 日が顔を出すや否やの早朝。眠る事を諦めた霖之助は、無縁塚へと足を伸ばしていた。

 道具の収拾は午後としている。普段なら近寄りもしない時間帯だ。

 一歩踏み出す毎に、かつての記憶が甦る。

 愛した女性、阿弥のこと。彼女と過ごした満ち足りた日々の事を。

 そしてもう一人の少女へと思いが行き着く。

 九代目阿礼の子、稗田阿求。自分を慕ってくれる、阿弥の転生体である少女へと。

 

 あの日から約百年。

 新たな阿礼の子が生まれたと天狗の新聞で知った時には嬉しさと恐怖が彼を覆った。

 阿弥の転生体が生まれてくれた喜び。新たな阿礼の子は阿弥ではないという恐怖。

 揺れ動く心を落ち着かせたとき、未だに自分は阿弥を愛していた事に安心と呆れを感じた。

 結局霖之助は九代目に会いに行きはしなかった。それが答えなのだと自身を律した。

 だが今から一年前の事。同じく春だった。

 幻想郷中の花が異様に咲き乱れ、今では異変の一つとして数えられている出来事が収まってきた頃のことだ。

 

「今代の幻想郷縁起です」

 

 稗田阿求が香霖堂の門を叩いたのは、自身が課せられた責務を果たしてからだった。

 書籍を手渡される霖之助に声はなかった。

 それもそのはずだ。九代目阿礼の子は、八代目阿弥の少女時代と生き写しだったからだ。

 霖之助は立っている場所に自信が持てなくなっていた。

 ここは現実か。それとも優しい思い出に逃げ込んだ偽りの世界なのか。

 そんな彼が現実感を取り戻したのは、手の内にある表題を目にした瞬間だった。

 

『求聞史紀』

 

 幻想郷縁起の名を冠しているものの、表題として記されているのは新たな意味を込められた名称だった。

 無意識に彼の能力が本質を読み取る。

 求聞史紀。九代目阿礼の子、阿求が見聞きした史実を書き表した郷土史。

 用途はこの地に住まう人々が知識と安全を得る程度の能力。

 

 そして、森近霖之助との再会を紡ぎだす希望を内包した程度の能力。

 

「……阿弥?」

 

 彼は彼女が帰ってきたと思った。阿弥が、再び会いにきてくれたのだと。

 だが、現実は……彼の思い描いてしまった妄想ほど、優しくはなかった。

 阿求は阿弥の記憶を引き継いではいなかった。

 阿求によれば先代の記憶を受け継いだのではなく、漠然とした意思が記憶の淵に埋まっているとのことだった。

 その埋もれていた意思が、求聞史紀の中に注ぎ込まれていたのだ。

 原因は不明。

 それは閻魔の計らいなのか、それすらも謎のままだった。

 そもそも粋か無粋かの判断もしかねる行いなのだが。

 

 だが阿求にしてみれば代え難い宝物でもあった。

 転生の度に振り出しへと戻される人間関係。そのなかで唯一輝いて見えたのが、半妖森近霖之助へのおぼろげな想いだったからだ。

 いつしか阿求の想いは憧れへと、恋慕へと変わっていった。恋焦がれる一人の乙女がそこにはいた。

 だからこそ霖之助は戸惑う。

 阿求から向けられている感情は借り物なのではないかと。阿弥に引きずられているだけなのではないかと。

 勿論好意を向けられることは嬉しいことだ。

 だが自分は応えられない。そもそも未だに阿弥を想っている男に、阿求からの想いを受け止める余裕などなかった。

 

 そして一年。

 今でも阿求は香霖堂へと訪れる。

 既に阿求は自身の想いと阿弥の残した想いの住み分けを終えている。

 純然に阿求個人が霖之助を慕っているのだ。

 紫を交えた三人の、以前と同じでありつつも、新しい関係が再開したのだ。

 その中で、霖之助だけは答えを見つけられていなかったが。

 昨夜の紫の言葉はそこを突いてきた。

 霖之助は今一度過去を振り返り、現在をみつめ直す為に無縁塚へと歩んでいたのだ。

 

 

 

 紫桜が舞い散る思い出の地。

 過去の想いを見つめ直した霖之助の眼前に、あの日の光景が時を隔てて甦る。

 夢と現の境界に佇んでいたのだ。

 愛した女性と姿が被る、幼さを残した少女が。

 

「……阿弥」

 

 自然と零れた名前は少女を傷つけたことだろう。

 しかし彼女は凛とした声で語りだした。

 

「私は阿求です。九代目阿礼の子、稗田阿求です」

「……阿求」

「はい。阿求です」

「阿求」

「はい。今、貴方を愛している、阿求です」

 

 一際強い風が無縁塚を撫でた。

 視界一杯に広がる紫。

 幻想的な世界の中で、阿求は笑顔だった。

 

 霖之助は彼女を見た。ここにきて、ようやく阿求自身を見つけたような気がした。

 いや、阿求が隠していたわけではない。霖之助が蓋をしていただけだったのだ。

 彼が見ていた色が、紫一色の世界から、温かな色彩の世界へと変わる。

 

「阿求。僕は君が怖かった」

「はい」

 

 それは独白でもあり告白でもあった。

 

「君はまるで、僕と阿弥の娘みたいに思えていた」

「はい」

 

 人であり妖でもある男、森近霖之助が抱えていた感情の吐露であった。

 

「将来、僕の想いが何処へ向かうのかはわからない」

「はい」

「君を慕うのか、永遠に他人を慕う事もないのか。それすらも今は判断できない」

「……はい」

「それでも」

 

 霖之助は言葉を区切る。一歩。たった一歩を踏み出す為に。

 

「阿求は阿求のままでいてくれるかい?」

 

 儚くも優しい笑顔が、彼女の強さによって開花する。

 

「はい。私は稗田阿求です。私の時間が許されている限り、阿求のままです」

 

 抱きしめていた。

 霖之助は阿求を力強く抱きしめていた。

 恋慕の感情からではない。

 それは己を救ってくれた少女への、親愛の情だった。

 

 答えが出たわけではない。新しい歩みを始めたにすぎなかった。

 それでも彼は、今を生き始めたのだ。

 

 

 

 

 

 

 二人に気づかれない場所で、隙間が音もなく閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰路。

 霖之助は阿求に問いかける。

 長くない自由な時間を別の事に向けるつもりはないのか、と。

 対する阿求は無邪気な笑顔を浮かばせた。

 

「暇潰しですよ。課せられた責務を果たした私が次代への道を繋げるまでの、ちょっとした暇潰しです」

 

 あろうことか阿求は言い切ったのだ。暇潰しだと。限られた大切な時間を過ごすその行動は、暇潰しなのであると。

 結局は、この優しさが阿礼乙女の強さなのかもしれない。

 霖之助は紫の世界の中、そう感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 間もなく今年の紫桜も散る。

 

 

 迷いを断ったその桜は、来年も新しい花を咲かせることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 願

 

 

 ──阿礼の部屋にて──

 

 

 緩やかな風が書斎にそよぐ。

 

 机の上には求聞史紀の原本が置かれていた。

 

 他者の目に入ることのないその本を春の風が優しく撫でる。

 

 春告精の悪戯か、本の頁が捲られていく。

 

 風が止んだ時にはある頁が開かれていた。

 

     香霖堂店主 森近霖之助

 

     職業──

 

     能力──

 

     住んでいる所──

 

 

 

 その横に、薄く追記された一文が躍る。

 

     良い人──阿礼の子

 

 

 

 

 幕

 



 

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